「美代様、お水をお持ちしました」

朦朧とする意識で、椿の声を聞いた。
背中と肩が痛むので、俯せで寝ている私は顔を上げる気力もなく、返事もできない。
頭が痛い。体が重い。全身が、動くことを拒否している。

決められた時間以外は、水ですら与えられない決まりとなっている。
ばれたらお前が怒られるよ、椿。

かさかさの唇で、まともに出ない声でそう言ったつもりだったが、椿には聞こえていないようで、細長い筒を口に突っ込まれた。

「吸ってください」

言われるがままなんとか力を入れると、その筒から冷たい水が口の中に入ってきた。
口を閉じそびれて、いくらか枕に零れてしまったが、お陰で思い出した。この細長い筒の名前。ストローだ。
身体が熱いと、冷たい水が体の中を通っていくのがわかるのだな。こんなふうに意識したのは初めての気がする。
冷たい水が喉を舐めたことで、だいぶ楽になった。

朦朧とする意識で、傍に座る椿を見上げると。

「美代様が庇ってくださったお陰で、私はお咎めはありませんでした。賄賂のことも、黙っていてくださったのですね」

あの律の馬鹿親は、私にどうやって会ったかも言いふらしていたらしい。
私と彼らを引き合わせた椿にも追及がいくはずだったが、父と母が怒りに任せて一番に私のもとにきたことで、彼女を庇うことができた。
あの男から話を持ち掛けられているところを私がたまたま聞きつけ、断ろうとした椿を無視し、無理矢理会ったのだと。
美しい青年に興味があったのだと、あることないこと口にして弁解した。
実際、〝彼〟に興味があったのは本当だ。
とはいえ、穴だらけの嘘だ。
部屋から出ることを禁じられている私が、どうして椿と彼らの話を盗み聞きできるというのか。

そんな戯言を信用されるわけもなかったので、少々脅した。
もし椿に罰を与えるようなら、次の多くの信者との面通しのときに、皆の前で全て話すと。
私に暴力を振るっていること、神様ではないこと、椿を罰しようとしたこと。
まあ、こんなのこけ脅しもいいところだが、私のほぼ初めての反抗のようなものに驚いたのか、納得はいっていないようだが引いてくれた。

いつもよりお祓いを念入りにする、ということで彼らの中で決着がついたようだ。
所詮、暴力でしか抑え込めないような小さい人間なのだ。愚かな親でよかった。

「何故です。私なんかのために、どうして美代様が」

おや。泣きそうな顔をしている。
賄賂をもらったなどと飄々としていたが、彼女もだいぶ人間らしい。

「……お前が羨ましかった。大切にできる親がいるのはいいな」

神様の〝美代〟ではなく、〝春野〟としての正直な想いだった。
純粋に、そう思う。

まだ、今よりもう少し世界に混ざれていた頃。
授業参観にきた母親や父親に、嬉しそうに手を振っている同級生たちが羨ましかった。〝親〟とは、あんなふうに笑いかけてくれるものなのだと知った。
帰り道、手を繋いで歩いている親子が羨ましかった。
一緒にアイスを買って、一緒に楽しそうに食べている母と子が、とても眩しいものに見えた。
あれを食べては穢れてしまうよ、と見向きもしなかった母の言葉が、寂しかった。

(ああいいな。私も欲しいな)

どう願っても手に入らなかったものだ。

更には今は、親子の縁すら切られた。
普段は〝美代様〟と呼ぶくせに、折檻のときだけはまるで父親や母親のような顔をする彼らの顔が認識できなくなったのはいつからだろうか。
何故か彼らのいつ見ても真っ黒に塗りつぶされていて、どんな顔をしているかもわからない。
そうなってから、随分と経つが、私にとっての親という存在は、その程度のものだったのだろう。
たまたま〝娘〟が、彼らの使い勝手のいい道具だったのだろう。
それを自分たちの都合のために利用することに、罪悪感も抱かないような人間たちだ。
顔は、黒塗りでお似合いだな。


「……美代様、私は今日をもって、美代様のお世話係を下がらせていただきます」

そうか。折角言葉を交わせるようになったのに、それは寂しい。
するりとそんなことを考えている自分が可笑しかった。
人間らしさなど、随分と前になくしてしまったような気がしていたけれど。

「それ以外にお前への罰はあるか」
「ございません。私は庭を出ることになりました」
「そうか」

それを聞いて、私はほっとしていた。

「椿、お前が、我が庭から飛び立って、自由に羽ばたいてくれたらうれしい」

教祖として、これはおかしな言葉だろうか。
けれど、こんな庭で、椿が幸せになれるとも思えない。
そしてそれに反して、庭から出て幸せになれる確信だってないのだ。
私は、椿がどうしてこの庭にいるのかも知らないのだから。

「……大丈夫、不安がることはない。お前の行く先には、穏やかな日々が待っているからね」

今だけは神様ぶってもいいだろうか。
この言葉を、椿が胸に抱き、少しでも前向きに生きれてくれたら、うれしいような気もする。

〝神様〟を自分都合で利用しているのは、私も同じだな。