曇り空の彼が置いていった飴玉をこっそり隠した。
そして時々取り出して、貴重な宝石でも鑑賞するするような気持ちで、眺めている。

見つかれば折檻である。
こんな飴玉ひとつで?
でも、自分が責を受けるだけならいいな、とも思う。
優しい彼には、どうか被害が及ばないで済めばいい。

あの人は、私が餓えていると思ってこれをくれたのだろう。
即席で安易な心遣いだが、そんな風に誰かに人間的な扱いをされたのは久しぶりだった。
その飴が、まるで暖かいストーブのようになって、私の心をあったかくする。

まだこんな気持ちが残っていたのかと驚いた。
飴玉ひとつで。
ちょろい神様である。

この飴玉で、だいぶ堕ちかけていた何かが少しだけ立てなおってしまった。
困ったな、早くおかしくなりたかったのに。




「美代様」

声を掛けられ、慌てずにその飴を隠した。
少しでも挙動が不審だと、徹底的に調べられてしまう。
不審だと言われ、私も折檻を受けることになる。
それだけは避けたい。肩の傷がまだ良くなっていないのに。

「大兄様には内緒で、お会いしていただきたい信者がおります」

なんと。
いつも食事を運んでくる女が珍しいことを言う。
私は彼女の名前も知らない。
中途半端な髪をいつも一つに結んでいる、あくまで普通で、地味な女だった。
無駄口も叩かず、黙々と父たちの言いなりになっているのを知っている。

「何故?」
「賄賂を貰いました」

馬鹿正直な女である。普通であるという認識は改めたほうがいいかもしれない。
それとも、我が宗教の教義に、〝嘘は魔物が吐くもの〟という項目があるからだろうか。

「わたくしがそこへ行って、何が起きる」
「何も起きません。美代様にご挨拶したいという新参の入信者がおります」

ちなみにこの語り口調はもうずっと前からだ。
私が〝先代の依り代〟になってからは、このように話すことを強いられた。

それにしても、女の話は面倒だ。
私がどう断ろうかと考えていると。


「彼らが〝同志を集う〟ようになってから、入信者が爆発的に増えております。それに伴い、お布施も高額に。とても美しい青年が多くの人の窓口になってくださっているようです」

女は無表情でそう答えた。
ここまで無表情なのもどうかと思うが、我が宗教では〝善人〟ぶりたがる人間ばかりいるので、こういうタイプは珍しい。

そして、〝美しい青年〟――あの人だ。〝同志を集う〟は、要するに布教活動のことだ。疑うことを知らないような人間を集めて、信者たちが講演する。
清潔感があり、巧みな話術ができる者、それらを訓練された者だけがつける役職のようなもので、これに多く貢献した者には給料も発生する。そうして世間を生きている人間も少なからずいるのだ。
あの美しい青年が舞台に立てば、それは人々の目を引き寄せるだろう。
人の目を引き寄せることができれば、あとは簡単だ。人は、〝その人のことを知りたい〟と思うだけで、自分の置かれた状況への判断が甘くなる。
美しい青年が講演するこの団体に入れば、彼と仲良くなれるのではないか。言葉を交わすことができるのではないか。あわよくば――と考えてしまう者は少なからずいる。
そういった人間の隙に付け入るのは、意外と簡単だ。
役割だけで言えば、美しい容姿をしたあの青年は適任だろう――。

「そのため、今回の賄賂も高額でございました故」
「……お前、それは誰にも言わないほうがいいわ」
「勿論でございます」

孤立している私なんかに取り繕っても無駄だと思っているのか、嘘は吐けないと思っているのか、もともとこういう性格なのか。

「もし私が彼らに会わないと言えば、お前のもらった賄賂はどうなるの?」
「そのまま納めてよいと言ってくださいました。我らが祖たる美代様をお呼び出しするために、それが叶わないからと一度渡したものを返せなどとは、そのような卑劣な真似はできないと」

賄賂を渡す時点で正義からは外れているような気はするが、人の価値観などそれぞれなのだろう。
だからこそ、こんなくだらない〝庭〟に入り込んできてしまう人間がいるのだ。
言い忘れていたが、〝庭〟――それが私達集合体の名前だ。
先代のころとは区別するために、〝美代の庭〟などと呼ばれているらしい。
俗世にまみれたネーミングだと思うが、拒否する人間もいれば、入ってくる人間は一定数いるのだという。

「わたくしが会わないと言えば、お前はどうする?」
「どうもしません」
「訊き方が悪かった。賄賂をどう使う?」
「……それは」

ここで初めて言い淀んだ。
私事に使おうというのか――我らが宗教のために使わないとは何事かと怒られるとでも思っているのだろうか。
そういったことを恐れるタイプにも見えないが。

「人々がお金をどう使うのか聞いてみたい。話せ」

神様ぶって訊いてみるが、これは私自身の興味だ。
私はお金を持つことは許されていないし、今まで買い物なんて一度もしたことがない。学校の購買部でノートや消しゴムを購入することは禁止されていたし、私を一時自由にしてくれた祖父も、子供にはお金を持たさない主義の人だった。
級友達がおそろいで買っていた、可愛らしい消しゴムを、羨ましく思っていたことを思い出す。
可愛らしい交換ノートも置いていた。私にとって小学校の購買部は、憧れと未知のものへ対する恐怖で成り立っていた。

「年老いた父と母に、温泉旅行をプレゼントしたく……」

何故か罰が悪そうにそう言われた。

――ああ。

「いいな。是非そうしなさい。きっとお前のご両親も喜んでくれる」

笑うことなんて数えることしかしなかったというのに、何故かこの時は、とても自然に笑えた気がする。
純粋に羨ましく、微笑ましかった。

「そのように想える家族がいるのはいいことだと、わたくしでもわかる。さて、お前のその素敵なプレゼントとやらに水を差すわけにはいかぬな」

そう言って立ち上がると、女は少し驚いたような顔をしていた。

「美代様は、話してみると全く印象が変わります」
「そうかい」

彼女がどんな印象を抱いているかは聞きたくなかった。