小学校の頃、周りのみんなと自分がなんだか違うことに気付いた。
みんな、「わたし」や、「ぼく」「おれ」って自分のことを言う。
私のように、「わたくしは、」なんて言葉を使うような子供は、誰一人いなかった。

皆が知っているテレビもおもちゃも、ゲームも、私の家ではすべて「俗世のもの」と呼ばれていて、それに少しでも興味を持とうものなら、すぐさま「本部」に連れていかれて冷たいお水で「お清め」させられた。それが土日を挟むとまずい。
私は学校のない土日の間、本部に預けられ、「お清め」と称した滝行(笑えるのだけど、シャワー室でひたすら冷水を浴びせられるのだ)と、食事を抜かれる。
もらえるのは、水と塩。それから梅干し。未だに何故梅干しは許されていたのか、謎である。塩分が多いから、なんかこう、殺菌効果的なのを期待したのかもしれない。
たまに入信したばかりの大人から憐れまれて、今まで口にしたことのないようなものを貰ったりした。
それは悪玉と呼ばれる飴玉だったり、呪札と呼ばれる板チョコだったりした。
死ぬほど美味しかったし、これだけ美味しければ、皆が禁止してるのもわかる、と納得したほどの衝撃だった。

家にお友達を呼ぶのは禁止されていた。
というか、友達なんていなかった。
「しゅーきょーの子」として私は上手に隔離され、小学校で少しでも級友達と言葉を交わそうものなら、同じ宗門の教師に親にチクられ、また「お清め」を受けるはめになった。
修学旅行も宿泊学習も行けなかった。
一度、授業で見せられた邦画で、初めて、皆の家には「祭壇」がないことを知った。
うちの祭壇は、黒い正方形の畳が板間に置かれた簡素なものだ。
その前に、小さな木箱とその上に教本が乗っている。その教本には、うちの宗教の教義がつらつらと書かれている。また笑えるのだが、それはパソコンで作られた素人丸出しの冊子で、しかも不慣れなものが作ったのか、文字の大きさやフォントがばらばらなのだ。狂気的だった。

中学校を上がるころには、私はもう、完全に宗教の娘となっていた。
全く血の繋がらないおじさんおばさんを、「にいさま」「ねえさま」と呼び、慕う振りも上手になった。

その頃には、この新興宗教の創設時からいる私の親は随分と上のほうにいて、信者からの支援もあり、とても豪華な家に住んでいた。
我が宗教の本殿ともいうような、風情ある日本家屋である。
まあ言えば、宗教のための場所を管理する役割が与えられていたのである。

私が中学校を卒業する三日前、教祖たる人が死んだ。
大変迷惑なことに、彼なのか彼女なのかわからないその人は、死ぬ間際に私と会っていた。
大したことじゃない。親の地位的なものが影響して、挨拶をさせられただけのことである。
我が宗門では、贅沢は禁じられていたが、その人はぶくぶくと太っていて、とても醜かった。
自堕落な生活をしているのだろうな、と子供の私でもわかるようなことをわからない大人が、私の周りには多かった。

彼は言う。

「お前達の身の内の恐ろしい欲望を私が一心に受けている。ご覧。そうして灰汁となったそれらが、私の身体に顕れているのだ」

お前のそれは不摂生が祟ったただの吹き出物だと言ってやりたかったが、同行していた親が感動のあまり涙を流していたので、言えなかった。そもそも教祖様にそんなことを言っては私は殺されるか犯されるか死ぬまで監禁されるかのどれかである。
〝話さない〟ことを覚えたのは、もうずいぶんと前のことだ。

まあそういった経緯があり、何故か次代の教祖は私であるということになった。
このあたりの説明は、正直なにがどう転がってそうなったのか私も知るところではないので難しい。
とりあえず、私の人生が終了したことだけはわかった。
さすがに周囲の大人たちも、教祖が代代わりをする違和感に気付いたらしい。
私は教祖の依り代となったのだということになったそうだ。
つまり、信者にとっての〝神様〟になったわけである。

義務教育を終えた私に高校進学は許されず、馬鹿らしいことにあほみたいな値段のする着物を着せられて、〝神様〟をすることになった。

あーしにたい。

神様がいるなら、私をさっさと殺してくれよ。