アンドレの商会事務所の扉を開けたグランは目を瞬かせた。
「なんだ……これは」
一つの大きな机をぐるりと囲むようにして、箱詰めされたたくさんの茶葉の商品が高々と積み上げられている。机の上に置いてあるのは買いたいと申し出ている貴族の名前のリストが一枚。それも一度も購入に至ってはおらず、さらに紅茶の在庫の数はどこを探しても記録されてなかった。ここまで手付かずとは。
グランは苛だたしげに頭をかいた。これではほんとうに文字通り一から始めなければならないぞ。
この事務所の鍵を預かる時、アンドレはグランにこう言った。この商会の大まかな取り仕切りは、前の経理の担当者に任せていたため、アンドレ自身が商いを動かせるわけでもなかった、そしてその前の担当者は貴族の子息であり、アンドレ同様に商いの経験はなかったと。
グランにしてみれば、よくそのような状態で商会を営もうと決断したものだと貴族というものに首を傾げるばかりだ。とにかくやることは山積みである。
グランは商会に必要な項目を上げ、順に片付けていくことにした。まず、商品を数えなければならない。数字を出し表にして、顧客にどの種の茶葉を購入するのか伺う手紙も書かねば。そしてそれを月に一度、在庫を用意するアンドレに報告することも必要だ。グランは商会を形から作り上げていくことに奮闘した。
商会がそんな状態であったため、グランの生活を支えてくれるような収入は当分望めそうにはなかった。最初の給料は上等なフロックコートを買うのに使ってしまったから、グランは暮らしのために、商会が軌道に乗るまで造船所の仕事をかけ持たなければならなかった。それも、造船所の給料は安く、休みは週に一度と限られているため、事務所に行くのはそのたった一度の休みの日か、造船所の仕事を終えた後であった。
二ヶ月もすると、商会はやっと形が見えてきた。わずかな時間の間にそれができたのは、少なからずグランに経験と才能があったからだろう。


「おい、ジャン。船底修理は終わったのか?」
造船所の出入り口で、荷物をまとめて帰る支度をしている大柄な男に、似たような風貌をした男が声をかけた。
日は傾き、そろそろ仕事も終わりの時間になりかけている。
呼ばれたジャンはニタニタ笑って答えた。
「いいや、けど新人がやってくれるって言うからさ」
「お前、またラグレーンに押し付けたのか」
呆れたように息を吐く同僚にジャンは肩をすくめる。
「本人がやってくれるって言うんだからいいだろ。それにテディエ、てめえこそ一昨日甲板のタール塗り、やらせてたじゃねえか。俺は知ってんだぜ」
言われた男――テディエもへらっと笑った。
「まあな。いいんだよ、ああいうやつは慣れるためにいろんな仕事をこなすのが大事なんだからな。しかし、船底修理とは結構、お前も酷なこと……」
と、その時である。
「ごめんくださいまし」
二人に柔らかい声がかけられた。振り向くと、後ろに付き添いの女性を一人連れた美しい装いの令嬢が立っていた。
明らかに場違いな姿に、船大工達は目を丸くさせた。
令嬢は上品な様子を崩さずに言った。
「ここの造船所の支配人かどなたかはいらっしゃいますでしょうか。ある工員の方と少しお話できたらと思いまして」
ジャンは美しい令嬢に見とれてぼうっとしたまま固まってしまった。テディエも同じであったが、はっとして答えた。
「え、え、ええと、支配人は今日はもう帰っちまいました……けど、そろそろ仕事の終わる時間なんで、たぶん会えますよ。案内しましょうか」
「まあ、ほんとうに? それじゃあお願いしてもよろしいかしら」
花の咲いたような笑顔を浮かべた令嬢に、ジャンもテディエもしまりのない顔になってへらっと笑った。
「お安い御用ですよ。で、誰です? そいつの名前は?」
令嬢の言う名前をきいた途端に、2人は目を点にさせて固まった。

グランは材木を作業場にガラガラッと下ろし、息をつくと汗をぬぐった。
造船所の仕事が休みだった昨日は商会事務所の机に座っていたが、今日はこちらで朝から材木運びばかりだった。
造船所には多くの労働者がいたが、みなグランの犯罪歴を新聞で読んでいたため、彼からは遠ざかり、めんどうな仕事を押し付けてきた。グランは悔しさを感じていたが、せっかくの収入源である造船所を辞めるわけにもいかないので、しぶしぶ引き受けていた。
いつもなら造船所の仕事のあとは商会の注文整理に行くのだが、目の前の船底はボロボロで修理に時間がかかりそうだ。今夜は事務所に行くのは無理だな。そう思っていたところだった。
「グラン!」
突然、聞き覚えのある高い声で呼ばれ、思わず振り向いて目を丸くさせた。
「……エリーゼ?」
材木だらけの作業場に現れたのは、紛れもなく伯爵令嬢エリーゼ・ドゥ・ジレ・ドルセットだった。彼女の後ろには付き人らしい少し年嵩の女性が控え、さらにその後ろには彼女らをここまで案内してきたと思われる工員のジャンとテディエが意外そうにこちらを見ている。
「な、なぜここに……。なにしに来た?」
まるで奇怪なものでも見るかのような目つきのグランに、エリーゼは腰に手を当てた。
「あなたに会いに来たに決まってるじゃない! ちっともお屋敷に来てくれないんだから」
「……忙しいんだから仕方ないだろう。ここだけじゃなく、商会の仕事だってある」
エリーゼはそのようねと肩をすくめてみせた。
「わかっているわ。商会の事務所にいなかったから来てみたの。ここでのお仕事も大変そう……ねえ、ところで今日のお仕事は終わった? 今夜うちで夕食を一緒にどうかしら。お兄様からもぜひって言われてるのよ」
グランは鼻で笑って材木を持ち直した。
「あんたの屋敷で? 無理だ。伯爵が許さないだろう」
「あら、お父様は最近はずっと、辺境の領地へ行っているのよ。今あの屋敷の主人はお兄様だから安心して」
あの伯爵家の嫡男を前にして、安心などできるか。グランは心の中で呟いた。商会の営みに携わるようになってから、アンドレは根っからの貴族で上司としては気配りのできる良い男だと思ったが、依然として腹の読めない恐怖の対象だった。妹を利用しようなどと一瞬でも考えたことがわかってしまえば死ぬより恐ろしい目に合わされるだろう。
グランは口元を歪めて、材木を拾い上げて彼女に見せるように掲げた。
「あいにく、仕事が終わらない。明日までにやる事は、ここには山ほどあるんだ」
と、その時だ。エリーゼががっかりしたような顔を浮かべる間もなく、彼女の後ろから空回りしそうなほど明るく野太い声が上がった。
「待てよ、ラグレーン!」
ジャンとテディエだ。彼らはグランの方へ駆け寄ってくると言った。
「船底修理は俺たちに任せて、お嬢さんの屋敷に行ってこいよ」
「そうだよ、かまわねえさ!」
「え? で、でもさっきは……」
二人の思いもかけぬ言動にグランは戸惑うばかりであったが、エリーゼはたちまち満面の笑みを浮かべた。
「まあ、よかった! とっても親切な工員さん達ね!」
ジャンとテディエはしまりのない顔でへへへと笑った。なるほど、ただそう言われたかっただけか。グランは彼らを冷めた目で見ていたが、突然ぐいっとエリーゼに腕を引かれて驚きの声を上げた。
「うわっ」
「さあ帰りましょう、グラン! その木はそこに置くのよ。それじゃあ素敵な工員さん達、ごきげんよう」
そうして令嬢に引っ張られるようにして去っていく新人、そして付き添い人が造船所を去っていくのを見送りながら、ジャンとテディエは、ほうっと息をついた。
「久しぶりに美女の顔を拝めたぜ」
「まさか、やつにあんなご令嬢がいたとはな。しかもありゃ相当な金持ちだぞ。やっぱり犯罪者でも有名どころは違うぜ……」
「あいつはここは長くねえだろうな、すぐに出て行くに違いねえ」
二人は材木を下ろして作業に取り掛かり始めた。

造船所から出て、そのまま馬車で伯爵邸に連れて行こうとするエリーゼに、グランは自宅に戻り、身なりを整えてから一人で屋敷へ向かうと言った。エリーゼは疑い深い目を向けた。
「そんなの信用できるわけないでしょ……いいわ、あなたの自宅の前で馬車に乗って待っていますから。早く支度をすませるのよ」
結局グランは彼女から逃げることも叶わず、自分の家に着いた。たっぷり時間をかけて着替え、髪の毛についた木屑や埃を払い、櫛を通す。ジャケットのしわも念入りに伸ばした。ついでに散らかった部屋の片付けもしておく。家具といえる家具もあまりなかったが、とにかく少しでも時間を先延ばしにしたかった。とうとうなにもすることがなくなると、グランは腕組みをして考えた。あれからずいぶん時間が経っている気がした。もしかしたら、待ちくたびれてもう帰ってしまったということもあるかもしれない、そう思い玄関の扉をそっと開けた。そうして、グランは待ち構えていたエリーゼに首根っこを掴むようにして馬車に乗せられると、伯爵邸まで連れて行かれたのだった。