商会もある程度軌道に乗り、部下たちも仕事に慣れてきた頃。
グランは得意先のダカン侯爵の屋敷へ受注に訪れていた。執事から料金を受け取っていると、屋敷の主人が姿を現した。灰色の髪に、青い目の壮年期を迎えた紳士だ。彼はドルセット伯爵現当主やアンドレとも親しく、また奥方とともにグランの売る茶葉を気に入ってくれている、大事な客であった。
「おお、やっと新作の茶葉が届いたか。楽しみにしていたよ」
「ダカン侯爵様、おまたせをいたしました」
グランは深く頭を下げると商売用の笑みを浮かべた。
「今回の商品はほどよい甘みと苦みが同時に残る風味となっております。試飲された後、よければ感想をお聞かせください」
「そうか、早速家内と飲んでみることにしよう……おお、そうだ、ラグレーン君」
ダカン侯爵は思いついたような表情になると、思いがけないことを提案してきた。
「次に王都の宮殿で開かれる舞踏会に君も来るといい。大きな催しだから地方からも大勢客が集まる。君に私の友人達を紹介する事もできるぞ」
「え……わ、私が?」
「そうとも。宮殿の舞踏会の時だけでも王都に来るといい。ドルセット伯爵家の名なら新たな招待状をもらうことぐらい容易いだろう。それが難しければ、私が王家に頼む事もできるが」
グランは目を丸くさせた。
宮殿の舞踏会。久しく聞いていなかった単語に、グランは耳を疑った。自分が宮殿に出向くなど許されるのか。ほんとうにそんなことが可能なのだろうか。
「とにかく、友人達には舞踏会で君を紹介すると手紙で約束してしまうから、そのつもりでいてくれたまえよ」
「は、はい、もちろんです」
グランは頷くしかなかった。

困ったグランはドルセット伯爵邸を訪れた。エリーゼは珍しく不在で、アンドレが出迎えてくれた。
「ダカン侯爵は顔が広く、素晴らしく寛大なお方です。宮殿の舞踏会に参加すれば確実に顧客の増加に繋がるでしょうね。しかし……」
アンドレは難しい顔をした。
「以前申し上げた通り、あなたはとても有名だ……悪い意味で。最近は商人として良い噂もきくことはありますが、やはり世間の記憶は薄れない」
グランは俯いた。
「……そうでしょうね。実際のところ、私は商会の表舞台に立とうとは思っておりません。そんなことをすれば、商会の印象も伯爵家の印象さえも悪くなる。あの若い部下二人を社交界に出しても恥ずかしくないような人間に育てて……」
アンドレは首を振った。
「いいえ。私が心配しているのは、世間体ではなくあなた自身です」
「え?」
グランは目を瞬かせた。アンドレは言った。
「あなたは商会の柱であるお方だ。いずれは社交界の中を渡り歩いていただかなければなりません。あなたのせいで私の商会の評判や質が下がるとは全く思っておりませんよ。ただ、宮殿という大きさになると、多くの階層の人間が集まる。あなたに酷い言葉を浴びせる人間が少なからずいるでしょう。そうだな、ここは侯爵に頼んで……、いや侯爵よりもいっそ王子に……」
グランは伯爵子息の顔をまじまじと見つめた。
アンドレは苦い顔をしながら、グランを守ろうとする方法を思案してくれているようだった。あの時のエリーゼと同じだとグランは思った。初めて会った時のエリーゼも、自分が無作法だと囁かれるのに気にも止めないで、全力で自分の復讐を止めようとした。自身の評判ではなく、自分の配下を気にかける。これも、彼らの誇り高い貴族らしさなのだろう。
グランはアンドレの提案に首を振った。もう不安な表情は浮かべていなかった。
「いいえ、これまでの誹謗中傷は自分の自業自得。舞踏会でのそれらの被害は甘んじて受け入れましょう。商会のためにも、アンドレ殿が許可してくださるなら、ぜひとも宮殿へ行かせていただきたい」
はっきりと決意したようなグランだったが、アンドレは心配そうな顔で言った。
「私は毎年この時期は父のいる地方へ視察に行っているので、参加できないのです。ですからあなたをお守りすることができない……」
「ご安心ください。私はこれでも小さな経理係から諸外国に名を馳せるほどの銀行家になった成り上がり者です。悪口や嫌がらせに負けていたら、今生きていませんよ」
グランは自信たっぷりに言ってみせた。

アンドレのはからいで、グランの元に宮殿から正式な舞踏会の招待状が届いた。王都へ発つ日が近づくと、いつも服を注文している店の仕立屋がにこにこした顔で上等な礼服を持ってきた。
「この日のために仕立てておいたんですよ。ラグレーン様はいつもうちを利用してくださっていますからね……ぜひこれをお召しになってください」
仕事用の新しい服を着るつもりだったグランは驚いたが、用意された夜会用の礼服を着てみると、なるほど自分の陰気な顔さえ華やいで見えるほどに上等な服だった。
王都行きの馬車に揺られながらグランは、舞踏会で会うだろう顧客達の顔と名前を思い浮かべていた。
久しぶりの舞踏会だ。最後に出向いたのは半年ほど前である。グランが短剣で復讐を企てていたが、エリーゼに全力で止められた、あの夜だった。そういえば、部下の面接を行って以来、彼女とは会っていない。舞踏会の件以降で伯爵邸を訪ねた時もいつも留守にしていた。「暇で仕方ないの」と愚痴をこぼして屋敷に引きこもり、部屋でお茶をのんで過ごすという毎日はもう辞めたのだろうか。それならば、もしやこの夜会に参加していたり……?
そこまで考えて首を振った。いいや、彼女は社交界が心底嫌いだと言っていた。半年前に舞踏会にいたのは、親戚の招待だったからだろう。それに彼女は名高いドルセット伯爵家のひとり娘だ。舞踏会にいたとしても王都の貴公子達が彼女を放っておくはずがなく、グランとは言葉を交わすこともないだろう。自分はダカン侯爵と会って、顧客達に商会の説明さえできればいい、そのために出席を許されたのだとグランは無意識に自分に言い聞かせていることに気がついていなかった。
グランが王都に着く頃にはもうすっかり日が暮れていた。今夜はホテルに泊まり、明日の舞踏会に参加して、その次の朝には王都を出るという緻密な予定であった。王都ではあまり良い思い出はなかったので、長居するつもりはなかったし、なにより商会を部下達に任せきりにすることはできない。グランのハードスケジュールはすべて商会を中心として動いていた。

翌日、グランは王都の商店を見てまわり、紅茶の値段などを確かめ、実際に飲んでみたりした。グランの予想通り、港町に出回る紅茶に比べると、種類が多いが値段は高く、安いものは味気がない。王都に住む顧客にはやはり茶葉の質を売りにしていこう。グランがそう考えているうちに、日が暮れる頃になった。ホテルに戻り正装に着替えると、辻馬車を捕まえていよいよ宮殿へ向かった。
馬車の窓から懐かしい華やかな街路が見え、グランは目を細めた。煌々と明かりが灯り、歩道に敷き詰められた石はきっちりと並べられている。大きく立派な屋敷が立ち並び、その前では品のある黒の正装をした男たちが歩いているのが見えた。その向かいでは、美しいドレスや帽子を身につけた貴婦人たちが、嬉しそうに馬車に乗り込んでいる。
この通りに、かつての自分は屋敷を構えていたのだ。それは遠い昔のことのように思えた。

宮殿の入り口付近にはすでに多くの人が集まっていた。辻馬車を降りたグランは、前回のブリュノー家での件があったので、少し緊張しながら招待状をドアマンに差し出したが、ドアマンはにこやかに彼を出迎え、すんなりと会場へ通してくれた。
宮殿を訪れるのはほんとうに久しぶりだった。富と権力を兼ね揃えていた銀行家の時は頻繁に通っていたが、荘厳な建物の中に入る時は、前と変わらず心が打ち震えた。