「おい、恵子! 酒無くなったから買ってこいや!」
 そう言うと、父は空瓶をこちらに向かって放り投げてきた。
 職を失った父は、こうして毎日毎日朝から晩まで酒に入り浸る生活を送っていた。そんな父に見兼ねた母は、妹の愛花を連れて出て行った。『二人も子供を育てられない』といった理由で母に見放された当時7才だった私は、酒を飲んでは怒鳴り散らす父にビクビクしながら、どうにか生きていた。
 ごとん、と鈍い音を立てて転がる空瓶に自分の顔が歪んで写った。ただでさえ歪なその顔が、涙と鼻水でぐしゃぐしゃになり一層醜く見える。
「おい! 人の話聞いてんのか?」
「お、お金……ないです」
「あ? んなもん知らねぇよ! 父親に口答えするやつは仕置きだ。おら、こっちこい」
「ひっ、ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい! 買ってきますからだからそれだけはやめてください!」
 お願いしますと額を畳に擦りつけながら土下座する。日頃からこの調子なので、おでこの皮膚は硬化し、胼胝(たこ)のようなものができていた。
 しかし、私の懇願も虚しく、ボサボサになった長い髪を片手で鷲掴みにされると、洗面所まで引き摺りながら移動させられた。
「い、痛い、離して」
「うるせぇ! 仕置きだっつってんだろ!」
 そう言って洗面台に水を張り出した父は、今度は私の頭を掴んで水溜りのできた洗面台に顔面を押し付けた。
「がっ! ごぼぼっ、がばっ」
 もがき苦しむ私に一切構うことなく『仕置き』と呼ばれるそれが始まった。
 ばしゃと音を立てて上げられた自分の顔が目の前の鏡に写る。
 ──あぁ、さっきの空瓶に写ってた顔の方がまだましかな。
 などと考えるのがやっとで、間髪入れずに顔が水に沈められる。
「ご、ごぼっ! がぼっ……」
 ──いっそこのまま死んじゃいたい。なんで私がこんな目に? いつからこんなことに? お母さんがいた時は楽しかったな……今どこで何してるんだろう。愛花は元気にしてるかな。
 もう何度目かの浸水が行われた時だった。

 ピーンポーン

 家のインターホンが鳴った。
「あ? 誰だよこんな時間に……今いいとこなんだよ。邪魔すんなよ」

 ピーンポーン

「ちっ、うるせーな。はいはい今行きますよー」父はなにやらブツブツと呟きながら洗面所を後にした。
「かはっ、はっ。おえっ……お、終わったの?」
 声に出して安堵のため息をついていると、何やら玄関の方が騒がくなっている事に気が付いた。
「なぁ、頼むって。許してくれよ、な? わかった! うちの娘やるから! だから勘弁してくれよ! 頼む! たの、……う」
 声の主はどうやら父のようだった。
「お父さん?」
 這いずりながら薄暗い廊下に出ると、玄関の方へ目をやった。
「──えっ」

 その時の光景を、私は今でもハッキリと覚えている。

 地面を這っている私と父の目が合った。横には直立不動の父の身体。違和感塗れの状況に、ゆっくりと視線を上げた。
 そこには、開きっぱなしの玄関扉の前に、赤い斑模様が特徴的な黄色いレインコートを着た女が立っていた。
 目が合うと、女性はニタリと微笑んだ。
 視線を父の身体へ移す。
 ──お父さんの首が……無い。
 否、身体の横に、床の上に落ちていたそれであった。
 いつの間にか、父の首を中心に真っ黒な液体が小さな池を作っていた。
 しとしとと雨の音が開いている扉から聞こえてくる。
 ぽたぽたと液体が滴る音も聞こえるが、これは父の身体を伝って指先から零れ落ちた命の雫が、床に広がる赤黒い池に着水して発されているものだと見てとれた。
 刹那、ピカッと目の前が光で包まれると、父であった肉塊からどくどくと流れ出る液体が艷やかな赤色を帯びながら輝った。
 はっと息を呑む。
 ──この時、この時だった。この瞬間、私はこの異常な光景に、不覚にも『美しい』と感じてしまったのだ。そのコンマ数秒の景色に釘付けになった私はうっとりとし、深く溜息をついた。
 時間差で空がごろごろと唸る。
 私は感動の余韻に浸っていた。その感動は、父から解放されたとか、そういったミジンコみたいなちっぽけな理由でなかった。他でもない、先程目の前に広がったあの情景。脳にこべり付いて離れない、あの情景。
 ツンと香る鉄の臭い、艶やかに赤く光る血。そして、黄色いレインコート──。
 一向に心臓の鼓動が、鼓膜から消えない。
 これは『恋』だ、私はそう思わざるを得なかった。
 幾許かの時間が流れる。
 私はふと我に返ると、赤い斑模様の女が消えている事に気が付いた。
 私も……私にも、こんなことができるかな──
 雷は二度と光らなかった。