「今日から企画部に配属されました一ノ瀬です。よろしくお願い致します」
 次の企画をまとめていた俺は、聞こえてきた感情の読めない淡々とした女の声に打ち込んでいた手を止めてその顔を凝視した。
 間違いない、あいつは……。
 肩甲骨の辺りまで伸びた艶やかなストレートの黒髪。片側だけかけられた耳からはシンプルなデザインのスタッドピアスが覗いていた。
 凛々しい瞳とスーッと通った鼻すじ、そして小さく引き締まった口許。整いすぎた目鼻立ちがキツい印象を与えてしまうほどの美貌の持ち主。
 ふと周りを見渡してみると、男どもだけならず女性社員たちも彼女の美しさに見惚れているようだった。惚けた様子で力のない拍手をしている。
 自己紹介を終え、きっちり四十五度のお辞儀をしてから顔を上げた彼女に俺は息を呑んだ。
 ……可愛い。
 クールな外見とは裏腹に歯を見せて笑う姿はとても可愛かった。今の不意打ちの笑顔でいったい何人の男のハートを射抜いたのだろう。
 俺だけのものだったはずの彼女は、あの頃よりも確実に大人の女に成長していて複雑な気持ちになってしまった。
「部長に挨拶をしたいのですが……」
「一ノ瀬さん! 部長は今外出中なんで、とりあえずは課長の天海さんに挨拶しとけばいいと思います!」
 キョロキョロと部屋を見渡し目当てのデスクを探している彼女に、俺の直属の部下である神田がすかさず声をかける。
「あまみ……?」
「はい! めっちゃイケメンで仕事もできるうちのエースなんすよ。次期部長候補! こんな俺なんかにも優しくて……俺の憧れなんです!」
 神田の言葉に首を傾げる彼女に、神田はまるで自分のことのように俺のことをペラペラと語り始めた。これはうちの課では日常茶飯事で、また始まった、と皆呆れ顔だ。
「それで今度の企画も天海さんのおかげで勝ち取れましたし……」
「神田。恥ずかしいからもうやめてくれ。……それに、一ノ瀬も困ってるだろ」
 これ以上は聞いていられなくて自分から前に出ながら神田を諭すと、神田は「す、すみません……」と叱られた子犬のようにしょんぼりと顔を俯かせた。
「別に怒ってるわけじゃないから。そう言ってくれて嬉しいよ」
そう言えば、「天海さぁん!」と神田は見えない尻尾を振ってくる。
「ふふ、素敵な方なんですね。……え?」
 俺たちのやり取りに楽しそうにクスクスと笑った彼女が、神田の隣に立った俺の顔を見上げて固まった。元々大きな目を更に見開かせ、驚愕の表情を浮かべる。思わぬところからの俺の登場に驚きを隠せないようだった。
「朔夜くん……」
 ポツリと呟いた彼女の目が揺れたのを俺は見逃さない。まだ彼女の中で俺が生きていたことにひどく安堵した。
「とりあえずここが一ノ瀬のデスクだから」
 美依、と呼んでしまいそうになるのをグッと抑え込み、上司の顔で自分のデスクの隣を軽く叩く。
「えっと、天海…」
「先輩でいいよ」
俺の呼び方に戸惑った彼女にこっそり耳打ちする。
「私のデスクは天海先輩の隣ということですか?」
「ああ、そうみたいだな」
 俺もどうしていいか分からないからお前までそんな顔しないでくれ。
 不自然なほどに黙ってしまった俺と彼女の間に気まずい空気が流れる。先にそれを断ち切ったのは彼女の方だった。
「あの、質問いいですか」
「ん? なんだ」
「天海先輩って企画部じゃなかったですよね……?」
 確かに俺は企画部じゃなかった。彼女と一緒にいた頃に話していた場所とは違い、疑問に思ったのだろう。
 というか神田、なぜ新参者の彼女が俺が前は違う配属先だったことを知ってるのか、そこには突っ込まないのか。
「あぁ! 天海さんは俺たちの正式な上司として一ノ瀬さんみたく転属してきたんです。……慣れるまで大変でしたよ」
 俺ですらも急にここでリーダーとして働いてくれと言われて驚いたのに、一緒に働いたこともない俺をいきなり上司だと言われて、そりゃ戸惑ったよな。
 遠い目をしながら話す神田に、俺も当時を思い出していた――。

「これから君たちの課長になる天海朔夜くんだ。顔もいいが仕事さばきも一級品。俺は今からとても頼りにしてるんだ。それと、まだここの仕事で慣れないところも多いだろうから助けてやってくれ」
 部長に朗らかに紹介されたはいいが、男性社員の反応がどう見ても歓迎ムードではなくて。まあ原因は分かり切っていたけれど。
 もう何百回と聞いた女性社員たちの色めき立った声。ぶっちゃけ紹介なんかしなくても俺の顔と名前を知らない奴なんかこの会社では一握りだ。俺は入社したての頃からこの顔のせいで目立ちまくり大変モテた、まとめてしまえば俺の存在なんてこんなもん。俺がどれだけ仕事ができようが、それは彼らにとっては邪魔なだけのステータス。俺の企画が通されても、あいつは部長のお気に入りだからと言われ、人気があるらしい女性社員からの告白を断ったら、泣かせるまで罵声を浴びせただとかいう根も葉もない噂が流れたり、しまいには人妻を寝取っただとか信じられないくらいの攻撃が毎日毎日俺に当たってきていた。いい気持ちは当然しないが、それらが全て嘘だというのは自分が一番分かっている。時が経てば収まるだろう、そう考えていたのが甘かった。
 俺が企画部に配属されてから二ヶ月が経とうとしていた頃、初めて俺を中心とするプロジェクトが始まった。いくら俺の企画とはいえ、部署一丸となって進めていかなければならないのは言うまでもない。しかし各々に割り当てていた仕事の進捗を見て回ると、言われたとおりに終わらせていたのは片手で足りるくらいの人数しかいなかったのだ。部長への提出はもう目前まで迫っていて、この状態では絶対に終わらない。
「かちょ~、どうすんすかぁ? せっかくのチャンスだったのに残念でしたね」
「調子に乗ってるのが悪いのよ」
ケラケラと嘲笑する男性社員につられるように周りの奴らもコソコソと俺を馬鹿にしたような目を向けてきた。
 これは正真正銘のボイコットだ。
 といっても、俺がこれを見越していなかったわけもなく、実はこの時には既に部長へ提出書類は渡してあったんだけどね。
「残念なのは貴方たちの方ですよ。ここの部署がどういう場所か分かってますか?」
 うちの会社――秋山プロは、日本を代表する大手CM制作会社だ。毎年行われる、一年間で最も有益で皆の記憶に残ったCMを決めるCMアワードでは、毎回三つ指に入る成績を残している。
 そんな秋山プロに就職したいという者は多く、その中でもダントツで人気なのが企画部。自分の考えたCMを世に広めたい、そんな志を持って志願する就活生がほとんどだ。だがしかし、企画部は我が社の顔と言ってもおかしくはない。簡単にほいほいと就職できるはずもなく、新卒で企画部に入れるのはたったの五人。元々少人数で形成されている部署なこともあり、育成まで手が回らないのだ。
 でも、企画部に入る方法はもう一つある。それが、俺や一ノ瀬といった、転属という名の引き抜きだ。他部署からでも、企画部長や社長から直々にスカウトされることがある。その部署で成績を残し、かつ企画部への転属意志が強い者が対象、だったはずなんだが……例外もあるみたいだった。 
 ……俺と、一ノ瀬。確かに俺も、前に所属していた、ディレクター業を担う部署――通称ディレ部ではかなりの成果を上げた。違うのは……俺に転属願望が無かったこと。一ノ瀬も「俺が無理矢理連れてきた」って部長が言ってたから、転属意志はなかったはず。ま、これで分かる通り、企画部には優秀である限られた者しか入れないということだ。それなのにあの人たちは……。
「どういうことだよ」
「そのまんまの意味です。ここは企画部。そして、ここでの権限は全て私にあるってことですよ」
「……あ!? そ、それって……」
「ちょっと先輩! うまくいくって言うから加担したのにこれじゃあ逆に俺たちが危ないじゃないっすか!!」
 俺の言う意味に気付いたのか、顔を青白くさせる社員たち。ざわめきが大きくなっていく中、一人の若い男性社員が声を上げた。
「それは……」
どもる中年社員に対してそうだそうだ、と抗議が起きる。企画部内はもう大惨事だった。
 これ以上うるさくなっては同じフロアの他部署に迷惑がかかってしまう。そこで俺は決定的な一言で黙らせることにした。
「神田、中村、上野、相田、高橋、前島、青井。それ以外の奴は来週から企画部の所属じゃなくなったから。あ、もう定時だし俺は帰るね」
 まあ、所謂リストラ宣告。言われた仕事すらできない奴はいらないからな。
 そのまま俺は唖然とする社員たちを置いて部屋を出た。
「お前ら、奢ってやるから早く下来いよ」
勿論、いびりに耐えて頑張ってくれた社員へのお礼も忘れない。声をかければ、バタバタと慌てて荷物をまとめ始めて、その様子に少し笑ってしまった。

「……んで、その後お酒の力も借りながら課長と親睦を深めたんです。正直、あんな風に人員を排除するなんて鬼課長すぎて最初は怖かったんですけど、今はこの通り、優しくて頼りになる方で、俺、天海さんが課長の企画部に来て良かったです!」
 俺が長い回想に耽っている間に神田が話し終えたらしく、一ノ瀬が「そんなことがあったんですね」と口元を手で押さえて驚いていた。
 いつも思うけど、神田は俺のことを褒めすぎだろ。そんな大層なことをしているつもりはないんだけどな。
「もしかしてここにいらっしゃるほとんどの方が……?」
「ああ。二年前、俺が各部署から選抜したメンバーだ。神田、中村、上野、相田、高橋、前島、青井の七人以外は右も左も分からない状態だったのにここまでついてきてくれて本当に感謝してる」
「ええっ、俺らには感謝してないんすか~っ」
うわーん、と大袈裟に泣くふりをして見せた神田の頭に手を置いて。
「ばーか、まだ信用もない俺を信じてくれたお前らに一番感謝してるに決まってんだろ」
わしゃわしゃと頭を撫でてやれば、神田だけでなく今のやり取りを見ていた部署の全員がニコニコと嬉しそうにしていて、らしくないことなんて言うもんじゃないな、と居た堪れなくなってしまった。
「あー……、もうこの話は終わり! 全員今日は残業なしで上がれよ! ……思わぬところで時間を食ってしまったな。
「はーい」という気の抜けた返事に呆れながら、俺自身も先ほど手を止めてしまっていた仕事に向き直った。