「掃除用具を取りにいって、戻ってきたら真魚が居なくなってて…あたりを探しまわって、そしたらプールから大きな音が聞こえてきて…慌てて戻ったら、プールに真魚が沈んでた。…心臓が、止まるかと思った…」

 日の傾きかけた夕暮れの保健室で、七瀬が深く息をつく。
 ベッドの端に腰掛けるあたしのすぐ目の前で、七瀬はパイプ椅子に座っている。
 あたしは顔をずっと上げられなくて、七瀬が今いったいどんな顔をしているのかわからなかった。
 だけど膝の上で固く結んでいたあたしの手を、七瀬がぎゅっと強く握っていて、離そうとしなくて。
 それが痛くて堪らなかった。

「…ごめん、七瀬…心配、かけて…」

 小さく落とした言葉に、七瀬が顔を上げる。
 肩からかけたタオルが水を吸って重たい。制服も髪も、まだ乾かない。
 だけど寒いとは感じなかった。肌に張り付く感触は、気持ち悪かったけれど。

 窓の外で蜩が鳴いていた。
 ふと七瀬が手を伸ばす。あたしはそれにひかれるように、顔を上げる。
 西日がガラスに反射して、保健室はオレンジ色に染まっていた。
 握られていた手が、少しだけ緩まる。

 すぐ目の前であたしを見つめる七瀬のその瞳が、光と雫で揺れていて。
 あたしはなぜか、遠い世界の誰かの、青い瞳を思い出していた。
 だけどそれが誰だか、思い出せなかった。

 七瀬の大きな手の平が、ぎこちなくあたしの頬に触れる。
 冷たくて細い指先。少しだけ、ふるえている。

「…抱き締めて、いい?」

 七瀬が泣きそうな声でそう口にした。
 まるで迷子のこどもみたい。
 つい最近もこんな顔を見た気がする。
 でも誰だっけ。何処だっけ。
 上手く思い出せない。思考がまとまらなくて。

 あたしは七瀬のふるえるその手に自分の手を重ねた。
 無意識にそうしていた。

「…さっきも、してたよ?」

 少しだけ笑ってそう返すと、七瀬もやっと表情を緩める。
 それから一瞬の間を置いた後、あたしの視界にはもう、七瀬しか居なくなっていた。

「…真魚が、好きだよ。傍に居て、真魚…もうどこにも、いかないで」

 強くつよく。
 七瀬の腕に抱かれながら、あたしもその背に腕をまわす。
 一層強くあたしは閉じ込められて、その胸に顔を埋めた。

 ひとの温もりに触れて、純粋に安堵した。
 七瀬の体温があまりにも熱くて、鼓動ははやくて。
 痛いくらいに気持ちを、感じたから。

 涙が出るくらい、嬉しかった。
 そんな風に言ってもらえたこと今までなかったから。
 今まであたしのことを、必要としてくれた人なんて…

 ――いなかった? 本当に?

 カラダのどこかで違和感が、ひとつの泡のように浮かんだ。
 まわしてた手からゆっくり力が抜けていく。自分でも自分の気持ちがよく分からない。

「…ご、めん…七瀬…すごく、すごく嬉しい…。だけど――」

 自分でもよくわからなかった。
 だけど消えない色があった。

 泣いていたのは誰だっただろう。あの青の向こうに、居たのは。