「――リズ、居るか」

 …寒い。
 それが一番に感じた感想だった。
 服が濡れていた時よりも、はるかに寒い。思わず自分の体を両手で抱く。

 しんと冷えた場所。シアの声以外の音は響かない。明かりすらも、見当たらない。
 シアが扉を閉めた途端、シアの姿もリシュカさんの姿も見えなくなり、シアの声だけを必死に頼る。

「リズ!」
『そう叫ばずとも聞こえているよ、居ないわけがないじゃないか。アタシはここから、出られないんだから』

 部屋の奥から女の人の声がした。想像していたよりはるかに若い声だ。おおばばなんて言ってたからてっきり。
 部屋中に凛と響く、綺麗な声色。

「明かりをくれないか、この部屋でおれ達の魔法は使えない。今日はもうひとり客人が居るんだ」
『知ってるよ、きた時から感じてたからね。上手くいったようで、良かったじゃないか』

 その声と共に、奥にふわりと明かりが灯った。
 青い、光。
 それがいくつも床から湧き上がり、天井へと昇っている。
 まるで海の底に居るみたいな…そんな錯覚がした。

「…綺麗」
『おや、しゃべれるんだね。人の形も上手いものだ』

 声が、近付いてくる。姿はまだ見えないけれど。

「マオ、気をつけろよ」
「…? なにを?」
「リズは人ではないからな、その膨大な魔力にあてられるやもしれん」

 シアの心配とは裏腹に、あたしはこの空間に不思議と心地よさを覚えていた。懐かしいような、そんな不思議な感覚。そんなことを思うわけがないのに。
 それからシアが、目線をまっすぐ部屋の奥へと向ける。

「あー、まぁ、もう知ってるかもしれんが、トリティアもイディアも召喚に失敗した。代わりにこの娘が召喚の儀に現れたんだが…」

 やがて部屋全体を包んだ青い光が、シアやリシュカさん、そしてリズと呼ばれたひとの姿を照らす。
 部屋の奥の薄いベールの向こう。そこに人影が揺らいだ。青い光に包まれながら。

『…? 何を言ってるんだい、成功したんだろう?』
「…なにがだ?」
『何がって、海神トリティアと眷器イディアの召喚さ。アタシは先代の契約のときに立ち会ってるからね。ソイツらの気配は知ってるさ』
「…待て、リズ。何を言ってるんだ? 長く生きすぎてとうとうボケたか?」
「ジェ、ジェイド様…!」
『なんだとクソガキ。あいっかわらず失礼なヤツだね、この城ごとぶち殺してやろうか』

 ベールの向こうの影がゆらりと動き、部屋全体も大きく揺らいだ気がした。この部屋自体が、彼女の影響を大きく受けるように。
 目の前に居たふたりが、顔を見合わせ何かを思案する。
 それからシアが確認するように口を開いた。

「…リズ、もしや。…居る、のか? 海神トリティアと眷器イディアが…ここに?」

 シアの声音が、変わる。ふたりの間を流れる空気も。

『ああ、お前達が連れてきたじゃないか。そこに』

 何の話をしているのか、いまいち呑みこめない。理解できない。
 ただそのふたつの名前は、さっき散々シアの口から聞いた名前だ。
 シアが求めた存在の名前。つまりあたしがこの世界にくる要因となった名前でもある。

「…え」

 シアとリシュカさんの視線が、こちらを見る。その先にはあたししか居ない。

「…え?!」


 一体あと何回否定したら信じてもらえるのか。
 あたしはただの平凡な女子高生だということを。

「…異界の者の気配は、同世界の者にしか感じられないはずだ。リズが言うなら間違いないはずだが…」
「そうですね。仮に我々と同じ“人間”であるならば、現れた際に少なくとも私が気付いたはずです」
「ああもうだから、人間だってば! ただの、フツーの、一般人!」
「まさかおれ達に正体を偽っているのか?」
「…姿形くらいなら偽れども、自らの正体を否定しているとは考えにくいですが…」

 ダメだ、この人たち。全く話を聞いてくれない。
 万が一あたしがそのナントカっていう神さまだったり武器だったと結論付けられたりしたら…それはつまり、どういうことなんだろう。どうなるんだろう。
 まさか戦えとでもいうのだろうか。相手すらもわからないけれど。
 そもそもそういえば、なんでシア達はそれらが、神さまだとか武器が必要なんだろう。

『アンタの名前は?』

 ふ、と自分に影が落ちた気がして顔を上げる。だけどそこには誰もいなかった。
 シアとリシュカさんはまだ討論中だ。だけど声は、確かにすぐ傍からした。

『アンタが違うというなら、きっと違うんだろう。ではアンタの名前は?』

 声の主の影はまだ、部屋の奥のベールの向こう。やっぱり綺麗な、声。

「えっ…っと、マオ、です…碓氷真魚…」
『そうか、ふぅん、なるほど…』

 まだ尚討論しているシアとリシュカさんを置いて、こちらは対照的に楽しそうな声色。くつくつと笑う声が泡になって浮かんで消える。

『アタシはリズ。昔はいろんな名前で呼ばれてたが、今はこれが一番気に入っている。マオ、アンタはこの世界の人間ではないんだね?』
「は、い…それは確実に、違います…あたしの世界では、魔法や神様なんて、存在しないから」
『へぇ、それは興味深いね』
「あなたも、人間ではないって聞きましたけど…神様、なんですか…?」

 あたしの問いに、リズさんがベールの向こうで笑うのがわかった。
 だけどそれは先ほどまでの面白そうな笑いではなく、背筋の凍るようなもので。

『確かにアタシは人間ではない。だが神様でもないね。もはやこの世界にアタシを形容できる言葉は無いだろう』

 ――寒い。
 肌で感じることができた感覚はそれだけだった。
 怒りなのか哀しみなのか憎しみなのか。
 想像の及ばない感情が、この空間に満ち溢れている。
 身動きひとつできないあたしの前に、カツンと靴音を響かせてシアが現れた。その背に漸くごくんと唾を呑む。

「リズ、落ち着け、お前が暴れると本当に城が壊れてしまう」
『ふん、そうできないようお前が居るんだろう。むしろアタシを押さえられるのは、もはやお前ひとりしか居なくなった。忌々しい血族は』
「リズ様…どうか、心をお鎮めください…今日はジェイド様も疲れておいでです」

 今度はリシュカさんがシアの前にその身を滑り込ませ、深く頭を下げた。
 僅かな沈黙後、シアが浅く息を吐いたのと同時にふ、と部屋の空気が軽くなるのを感じた。

『まぁ、いいさ。マオ、残念だけどアンタがトリティアかイデアなのは間違いない。それでもアンタが違うと言うのなら…アンタのその体かもしくは魂のどこかに、ヤツらは居るんだろう』