ここは、デザイド王国。リアス海岸と広大で肥沃な大地と山々。豊かな自然に囲まれた国である。その中で一番の豊かさを誇るスヴォルベリ領は、デザイド王国の大陸からこぶのように突き出た地形にあり、前は海、後ろは山。領土的には広くはないのだが、漁業のほか、山を利用した農畜産が盛んで、それらを生業(なりわい)とする優秀な商人や職人たちが賑やかに行き交う。賑やかな港町スーザントには漁船や貨物船が出入りし、加工場や店が建ち並び、活気に溢れている。

 領主であるスヴォルベリ伯爵は穏やかでのんびりした気性で、争いごとを好まない。そんな部分も、領土の人々から慕われる理由のひとつなのだろう。早くに妻を亡くしたが、残された兄妹を慈しみ育て、代々受け継いだ領土を守る堅実な人柄で、屋敷で働く者たちや領土の人々からも信頼されていた。

 ある晴れた日。遠くに海を望む高台に建つ大きなスヴォルベリの屋敷の門から、一台の馬車が走り出ていく。乗っているのはスヴォルベリ伯爵が溺愛するひとり娘、シュティーナ・スヴォルベリと侍女のリン。馬車の中では悲鳴にも似た声が響いていた。

「あああ~もう、シュティーナ様ぁ! 戻りましょう」

「大丈夫よ。お父様とお兄様は王都ドルゲンに行っていて数日は帰らないし」

 シュティーナ付きの侍女であるリンが、少々ふくよかな体の前で指を組み祈っている。リンはシュティーナより十歳上。侍女ではあるがまるで姉のような存在で、よき理解者だ。

 白い肌に薔薇のような唇と緑色の瞳がよく映えるシュティーナ。明るい茶色の豊かな長髪を緩く編み、白いリボンで控えめに飾っていた。そして、これもまた控えめな紺色の、背中が編み上げになった、裾が捌(さば)きやすそうなドレスを着ていた。少女と女性のあいだの危うい雰囲気も魅力に加わり、益々美しくなってきたとまわりの人たちが言う。馬車は、気持ちのいい陽気の中を軽快に走る。

「大丈夫だってば。前みたいに町で食事をして海を見てくるだけじゃないの、数時間のことよ」

「なにかあっては困るから、伯爵様が不在の場合は不要の外出はしないよう言われていますのに」

「不要じゃないわ。必要よ」

(あの賑やかな町を歩いていると心が躍るもの。屋敷にいたって退屈で死んじゃう)

 シュティーナはその気持ちを口に出さずに馬車の窓から外を眺めた。

「亡くなった奥様がなんとおっしゃるか……リンは震えます。伯爵様に黙っていなければいけないという罪に押し潰されそう」

 リンはそう言うがシュティーナは、いまは亡き母が好きだった海をもっと近くで見たかった。父であるスヴォルベリ伯爵が仕事などで不在のときには、侍女のリンと共に……というか無理矢理、許可を取らずに外出をする。

「イエーオリは黙っていてくれるわ」

「イエーオリ様はシュティーナ様に甘いので、いてもいなくてもあまり変わりません」

「うわぁ。それ聞いたらイエーオリ泣いちゃうわね」

 父と兄のミカルが不在なうえ、家令イエーオリも夕方まで外出していて、手薄だったのである。十八歳になったばかりのシュティーナは、亡くなった美しい伯爵夫人、シュティーナの母親に生き写しで、母譲りの美貌と緑色の瞳が優しく輝き、物静かでお淑(しと)やか……ではなく、似たのは外見だけだったとまわりの皆が言う。シュティーナの耳にも入ってくるが、気にはならない。

(わたしはわたし、お母様はお母様だもの)

『シュティーナ。あなたの笑顔は皆を幸せな気持ちにするのよ。笑顔は幸せを連れてくるの。だから、どんなときも笑っていてね』

 母がよく言っていた言葉を思い出して、シュティーナは胸がきゅっと締め付けられた。母はシュティーナが七歳のときに亡くなった。父を支え、愛し、美しく聡明であった母のことを誇りに思うし、その母をいつまでも愛している父のことも尊敬している。シュティーナは、皆が自分の外見を通して思い出し懐かしむのは、母の思い出が風化していないのだと嬉しく思う。そして心が温かくなり、いまは亡き母をそばに感じることができるのだ。

「単独行動はなさらないでくださいね。わたくしから離れませんよう」

「もちろんよ。リンだけが頼りだもの。町では言うことを聞きます」

 男性御者も一緒だが、馬車で待っていて貰(もら)おうとシュティーナは思っていた。あまりぞろぞろ連れ立って歩くと目立つ。それでなくとも、シュティーナの容姿が人目を惹きつける。スヴォルベリ伯爵令嬢は屋敷を抜け出し町での食べ歩きが趣味、などと噂(うわさ)が広まっては動きにくくなってしまう。

 そのために、一部の者たちにだけ外出を告げてあとは口止めし、服装や髪は質素にまとめ、馬車も地味なものに乗ってきたのだ。内緒の外出など、皆が大反対しているのだが、愛らしいシュティーナの願いを強く諫(いさ)めることができる使用人はいない。