「どんとこい発音トレーニング、です」

「いい覚悟だ」

闇の中でふっと先輩がほほ笑んだのがなんとなく風で伝わってきた。目に見えないけれど、気配で相手の雰囲気を感じるのも新鮮だ。

「では、まず……『す』と言ってみろ。あまり大きな声は出すなよ」

「はい。……『す』」

「よし。よくできたな」

ふわりと空気が動く。少しだけ、先輩愛用のスパイシーミントの清涼感のある香りが漂ってきた。

「では、次だ。『き』と言ってみるんだ。もっと声は抑えてな」

「はい。……『き』」

「いいぞ」

コツコツ、と革靴の音がした。先輩がとても近くで、袖をまくったのがわかる。

「では、次。……『で』」

「はい。『で』……?」

で?なんだろう、このトレーニング。なんでこんな語を?そんなことを考えながら発声したので、語尾が疑問形になってしまった。そして、私の目の前に誰かが立ちはだかった。

「なんだ、疑問形になってしまったな。もう一度」

「チーフ!?なんでここに立っているんですか!?」

「……もう一度」

先輩の声が耳元でやわらかく響く。同時に、耳がぽっと染まったのがわかった。 先輩の息がかかって、くすぐったい。……憧れの、二宮先輩の吐息がかかる位置に、私……立っている。

「で……『で』」

「いい子だ」

私の体が少し軽くなった。私は、先輩の腕の中にいた。腕と腕が触れ合う。先輩の筋肉質な腕に隆起した血管を感じる。トクトクと……血が流れている。私の血も……先輩は感じているの?

「チ、チーフ……」

「最後だ。『す』と言ってみろ」

す……?最初は「す」、次は「き」、それから「で」で、最後はまた、「す」……。これってもしかして……。

「言いませんっ!!」

「言わないのか?」

「絶対言いません!!」

「なぜだ?」

「だって、だって……」

「気づいているか?」

先輩は、私を優しく抱きしめながら、私の髪をふわりふわりとリズムをつけて撫でた。

「さっきから、滑舌がいいぞ」

「えっ!!……あ、ほ、ほんとだ……」

「がんばったな。そのあとは、俺が言おう。『す』だ」

光がない、お互いの顔が見えない中で、存在だけは確かに感じる先輩が、そっと私の髪に触れる程度の軽いキスをした。

見えない、ということはなんと羞恥心と照れくささを薄めてくれるのだろう。先輩は、緊張しやすい私のことを知ってくれているから、こんなことを……?

なんてやさしいの、二宮先輩。好き、好きだ。

「チーフ……私も、『す』です」

そして、私も大胆になって、そっと先輩の背中に手をまわした。ふたりのぬくもりが、あかりになって室内を照らしてしまいそうだ。

「そうか。俺はうれしいよ。ずっと前から気になっていた。心配かけまいとがんばるお前の姿が、かわいかった。でも、たまには心配かけろよ。それもまた、一興だからな」


「あ、ありがとうごじゃいましゅ」

あ、また滑舌の悪さが出てしまった。

「おや、完全には治っていないようだな。もっと練習が必要だが、時間ももう遅い。行くぞ」

「どこへ行くんでしゅか」

「俺の家だ」

え、ええ――っ!!完全に頭がパニックになって脳がチョコレートのように溶けていく私をもう一度ぎゅっと抱きしめると、先輩がいたずらっぽく笑うのがわかった。

「お望みなら、毎晩練習してもいいんだぞ。病めるときも、健やかなるときも、永遠に、な」

先輩、それは気が早すぎます。


ミーティングルームに漂い、ほのかに背中の向こうに消えていくクッキーの香り。あまいあまいCookies’Sweet Nightは、さらに更けていった……。

(了)