「失礼。如月椿、とは君のことですね」

その日は初めての講義が幾つかあり、軽い疲弊感のある帰り道だった。

帰り道といっても、あの大階段を下りている途中である。後方からいきなり声をかけられ、はて、と振り返る。

そこに立っていたのは、眩しいぐらいの美丈夫だった。
いや背が高く骨ばっているから男だと思うけれど、顔といいその長くてさらさらな黒髪といい、つくりの良くわからない男女兼用そうな服といい、性別がわかりにくい。
四月に入ってからこんな存在にふたりも出会うとは、なかなか芸大とはあなどれない。ひとり目はもちろん三日月紫苑だ。

「……まあ一応、俺が如月ですが」
俺の返事に美丈夫がにっこりと微笑んだ。

その笑顔に一瞬、頭の中をなにかが掠める。なんだっけと思い出すまでに数秒。
「あ」
背中を押されたときに見た顔によく似ている。でもこんな雰囲気だったかどうかあやしい。一瞬のことだったし。

「なにか」
同じ場所、似てる顔。
「いや、なんでもないです」

疑ったところで証拠はない。その考えは一度頭の中から消去する。そもそも犯人を探したいわけでもない。

美丈夫は「はて」といった感じで小首を傾げたものの、気には留めなかったらしい。顔に再び笑みを浮かべ、俺を見下ろす。

「三日月紫苑のことでお話がありまして」
妙な威圧感にその名前。
まさかふたりが知り合いとは露とも思わず、並んだらさぞかし煌(きら)びやかだろうなどと、どうでもいいことを考えてしまう。

「あー……やっぱり怪我がひどいとか?」
「ひどい、というわけではないのですが、少々困ったことがあります」
「治療費とか、ですかね」
「いえ、お金などどうでも良いことです」

そのずばっと言い切ったことばに若干うらやましさを覚える。俺にとっては毎日の昼食代すら死活問題である。早急にアルバイトを始めなければならない。

「ここでお話するのも無粋でしょう。一緒に来ていただきたいのですが」
続けて「お時間よろしいでしょうか」などと丁寧に言ってきそうな口調だったが、その眩しいほど整った体躯から出ているものは、有無を言わさないオーラだった。

でも確かに、大階段で立ち話をしているのは、少々目立つ。
この美丈夫が三日月紫苑と違うのは、通り過ぎる皆がその姿をちらちらと見たり、惚けて眺めたりしているところだろう。

「どこにでしょうか」
一応尋ねてみたものの、美丈夫は答えない。
つまり選択の余地はなし、とにかくついてこいということなのだろう。

少々迷うものの、罪悪感がないわけでもない。
わかった、と了承すると美丈夫は「感謝します」と軽く頭を下げた。真っ直ぐな髪が肩からさらさらと落ちる。その所作がうつくしい。

美丈夫は自らを雲母(きらら)だと名乗った。なんてお似合いの名前だろう。眩しさが増す。
その綺羅びやかな御仁は悠然とした足取りで大階段を下り、白川通を南へと下っていく。