春とは名ばかりで、冷たい空気が漂う3月のはじめ。その日は、卒業式だった。

辺りに舞うのは桜の花びらではなく小さな雪片で、太陽の光に反射して、キラキラ輝いていた。
風に流されながら舞うそれが、制服に吸い寄せられるように付着しては、やがて溶けていく。


「行かなくていいの?」

友達のその言葉が、なにを意味しているかはわかっている。


「……いくない」


いくないけど、

「だったら行ってこないと、……後悔するよ? もう、最後なんだから」


最後。

この言葉が、深く刺さってくる。

……そうだ。

どうせ最後なんだから、失敗したっていいじゃん。


「──行ってくるっ!」


先生は、探さなくても見つかった。

ひとりでスラックスのポケットに両手を突っ込み、たそがれていた。
その視線は、まだ咲いていない、つぼみのついたさくらの木の枝に向けられていたが、わたしは、もっと遠くを見ているような気がした。


「先生」


そう声をかけると、ハッとしたように振り返って「写真?」と微笑んだ。

本当は撮ってもらうつもりはなかった。
ていうか、そんなことすら思いつかなかった。


結局、思い出として撮ってもらうことにした。

「……お願いします」


スマホをポケットから取り出して、カメラを起動する。
右手を伸ばして、わたしと先生がぴったりおさまるところまでスマホを持っていく。

手が震えて、安定しない。

すると先生がすっと腕を伸ばし、わたしが持っているのと逆の方に手を添えて、支えてくれた。


あぁもう。


ボタンを押すと、カシャッと控えめのシャッター音が鳴った。

レンズの向こうの、保護ガラスの向こうの先生は、いつもの優しく笑う先生だった。


「ありがとうございます」

「いーえ」


小さく深呼吸する。
冷たい北風が、火照る頬を撫でて去っていく。

心臓の音が大きくなる。
まるで、身体中が心臓になったみたいに、どっくん、どっくん、音を鳴らす。

どうせ無理なんだから。

言っちゃえわたし。


「──好きでしたっ」


案外、声は震えなかった。
思ったより、落ち着いていた。


「……っそれじゃ」

くるっと後ろを向いて、友達がいる方に歩き出す。


言い逃げなんて、卑怯だ。

でも、もういいや。


どうせきっと、もう二度と会わないんだから。


名字が、呼ばれた。

先生は一度だけ、わたしの名字を読み間違えて呼んだ。そのとき、お詫びに飴をくれた。
読み間違えられやすい名字なのに、先生が間違ったのはその一度きりだった。

もう名字や名前を呼んでもらえるのも、これが最後なんだ。間違った読み方で、呼ばれることもない。


振り返る。

「……ありがとう」

ちょっと笑った先生が、いた。


その笑顔は、どんな意味?


嬉しいの?


迷惑なの?


戸惑いなの?


それとも?


こんなこと考えたって、無意味なことはわかってる。

わかってるけど、考えずにはいられないのだ。


最後こそ、先生を困らしたくない。

だからせめて、

「こちらこそ……3年間、ありがとうございました!」

いつも通りの、笑顔でいよう。


今度こそ、わたしは友達のいる方へ向かった。

一歩ずつ歩くたびに、その速度があがっていく。

振られたけど、不思議と涙は出なかった。

いや、不思議なんかじゃない。
わかっていたからだ。

先生とわたしは、そうはなれないと。


たとえ今日で、先生と生徒の関係が終わったとしても、

わたしにとっては好きな人で、

トクベツな人だとしても、

先生にとってはしょせん、わたしは数多いる生徒のひとりでしかないのだから。


これはきっと、先生を好きになってしまった生徒の宿命だ。

好きになっても、こっちが傷つくだけで、いいことなんてなんにもない。

傷つくだけの、あっちゃいけない気持ち。


でも、先生を好きになったことに後悔はしていない。


「……さよなら、先生」


さよなら、3年間のこの気持ち。