(……ああ、なんて)

 なんて、身勝手な理屈だろう。裏切っておいて。奪っておいて。優しい真姫先輩の心を踏みにじっておいて!
 何を……何を、そんな自分勝手で自分よがりな言葉を吐くのだろうか!
 ひどすぎる。
 こんなの、ひどすぎる。

 こんな結果、こんな結末、誰が用意した? 誰が、望んだ? 誰が、決めた?
 哀しすぎる。
 あんまりにも、救いがなさすぎる。
 それでも、
 それなのに――
 

 ……先輩は、微笑んだ。

 
 真姫先輩は、微笑んだんだ。
 恋人に裏切られて、親友に裏切られて、そんな残酷な光景を目の当たりにしたはずで。
 その上で、心無い言葉を投げつけられているのに――それなのに!
 だから……心は、きっと痛いはずなのに。ずたずたで、ぼろぼろで、めちゃくちゃで……悲鳴をあげたいはずなのに!
 泣き笑いのような顔を、無理矢理にゆがめてまで……先輩は、微笑むんだ。

 何で? 
 どうして?
 ののしればいいじゃないですか。怒ればいいじゃないですか。声を張り上げて、叫べばいいじゃないですか。
 だって、それが普通じゃないの? 当たり前じゃないの? こんな時まで。そんな、物分かりのいい表情を、貴方はするのですか? 
 声にならないあたしの問いかけ。
 当然のように、誰も答えない。何も、応えない。

 
 音が、遠くなる。
 目の前の光景が、遠く隔たっていく感覚。
 その向こうで、

「…………」 

 先輩は、静かに背を向けた。
 ゆっくりと、ゆっくりと。
 肩にかかる長い黒髪が、ひるがえる。
 まるで黒い幕みたいに、先輩の顔を隠す。
 誰かが、思わず伸ばそうとした手は届かなくて。

 
 先輩は。 
 みんなをその場に残して、駆け出した。

 
「……!」

 小さく息を飲む音が、やけにはっきりと耳に届いた。
 視線を向けると、和秋の姿。中途半端に腕を差し伸ばした格好でたたずんでいた。
 その顔は、まるで取り残された子供みたいで。今にも泣き出しそうにゆがんでいる。

 
 途端、頭に血が上った。
 それは、怒りにも似ていて。
 だけど、怒りとは違う。
 あたしは、その感情が湧き上がるままに、

「和秋!」

 声を、荒げていた。
 弾かれたように、和秋があたしを見る。

「追いなさい!」

 ――真姫先輩を、追いかけなさい。
 あなたが、一番に飛び出して……真姫先輩を追いかけなさい。
 それが、一番正しいはずだとあたしは思ったから。
 だから、あたしは叫んだ。

「……あゆか」

 さっきは、届くことのなかったその腕。踏み出すには、弱すぎたその足を――あたしは、叱咤する。

「和秋!」

 今一度あたしが荒げる声に、彼はためらいを振り払う。

「……ありがとう」

 振り切って、振り捨てて、駆け出した。
 真姫先輩の後を追って、部室を飛び出していく。
 あたしは、その背中を見送る。
 それで、いい。
 杉原和秋は、脇目も振らずに九条真姫を追いかける。
 藤代あゆかは、そんな彼を後押しするから。
 これで、いい。

 
 そうして。
 その場には、あたし達三人だけが残った。