現実感が、なかった。
 意識にもやがかかって。
 視界が、ゆらめいて。

 
 アハハ……まるで、悪い夢みたい。
 たちの悪い三文芝居。演出も、脚本も、全部全部……最低で最悪な夢。
 そうだとしたら。
 それは、誰が見た夢で。
 誰が、見ている夢なのだろう。
 
       ◇
 
「あ――!」

 唇を振るわせるのは、怒りを孕んだ声だった。
 押し殺すことなんて、できないくらいの。
 我慢できずに、あふれてしまうほどの。
 そんな、声だった。 

「……ぁ、んた達! 何やってやがんだよおっ……!」

 その叫び声は、あたしじゃない誰かのものだった。
 だけど、あたしも同じ気持ちだったに違いないから。
 その声は、あたし自身の声だと錯覚してしまった。
 目の前には、見苦しくうろたえるふたりの人間。

 ひとりは、自分の恋人を裏切った男で。もうひとりは、親友を裏切った女だった。
 そんな人間を前に、いったいどんな感情を覚えればいいというのだろう?
 最低で、最悪。ヒトの形をしたクズ人形には……吐き気を押し殺して、めまいに倒れそうになりながら、殴り飛ばして、蹴りつけて、ツバを吐きかけて――きっと、それでも足りない。全然、ちっとも、足りないはずだ!
 だから、

「この野郎っ!」

 あたしのとなりを駆け抜けていく和秋を、止めなかった。

「ふざけんなあっ!」 

 卓也先輩の胸倉をつかむ和秋を、あたしは、止めなかった。
 だから、あたしか……それとも、他の誰かの代わりに。
 

「やめてえっ!」

 引き裂く声。割り込んでくる悲鳴が――
 

 殴りかかろうとした和秋を、止めていた。
 
       ◇
 
 誰もが、押し黙る。
 誰もが凍り付いてしまって、ただ彼女を見つめるだけだった。
 

「……真姫」

 やがて、呻くような声でその名前を呼んだのは卓也先輩だった。

「先輩」

 立ち尽くす和秋を軽く押しのけて。
 震える手を差し伸ばしながら、真姫先輩に歩み寄ろうとする卓也先輩。
 それを、翔子先輩が押しとどめた。
 後ろから抱き付いて、それを真姫先輩に見せ付けるような格好で。

「見ての通りよ? 真姫」

 唇を醜くゆがめながら、そう言った。

「あんたが、悪い。あんたが……悪いんだ」

「……翔子?」

 声を漏らす卓也先輩をさえぎって。

「翔子、ちゃん?」

 震える真姫先輩のを押しのけて。
 上ずった声で、言いつのる翔子先輩。

「そうよ! 真姫、あんたのせいなんだ。あんたが、きちんと卓也をつなぎとめていないから……だから、卓也は、不安になって……本当に、あんたが自分を好きなのかって……!」

 ――だから、自分が彼をもらった。

「あたしだって……ずっと、卓也が好きだったんだよ? それを、あんたに譲ったのに……譲ってやったのに……!」

 だから。
 あんたが、悪い。
 だから。
 自分のせいじゃない。
 だから。
 自分は悪くない。

 いつも、控えめに微笑んでいた真姫先輩。
 卓也先輩が、少しくらい彼女をないがしろにしても。少しくらい、彼女の親友と一緒にいても。彼女といなくても、平気だった真姫先輩。
 でも、それが皮肉にも。
 それが、卓也先輩を不安にさせた。
 それが、彼の心を揺り動かした。
 本当に、自分は彼氏なのかって。
 真姫先輩は、自分を好きなのかって?
 

 ――だから。

 
 だから、翔子先輩に傾いた。
 きっと、ほんの少し。
 少し、ちょっとだけのつもりで。
 でも、少しだけ寄りかかってしまった卓也先輩を、翔子先輩はがっしりと抱きかかえてしまった?

 
 そういうこと、なのだろうか?