「え、えーと……」

 あたしは頭をかきながら、乾いた笑いで誤魔化そうとする。

「うーん、ごめん。ちょっと寝ぼけていたみたいっす」 

「そうか? なら、いいけどさ」

 それ以上の追及はしてこない。
 和秋は、近くの机の上においてあったバッグを肩にかける。

「とっとと部活、行こうぜ」

「うん」

 あたしも答えて、立ち上がる。
 あたしと和秋は連れ立って、ふたりだけしかいなかった教室を後にした。
 
       ◇
 
 本校舎から渡り廊下。歩いて、その先の部室棟に向かう。
 ここまでの道すがら、誰ともすれ違わなかった。
 それを怪訝に思ったけれども、深くは考えなかった。

「ちわーす」

「おはようございます」

 ふたりして、部室の扉をくぐった。
 あたし達は演劇部。
 和秋はある目当てのために入部して、あたしはその付き合いだった。
 そんな動機で入部したのだけれど、やってみるとこれが結構面白い。
 自分以外を演じてみるのは楽しいし、舞台本番のあの緊張感もなかなかどうして病み付きになる。
 もちろん気楽ではないし、それなりの苦労もあるけれど――もしかしたら、不純な動機で入部した和秋よりも真面目な部員なのかもしれなかった。

「あ……先輩」

 部室には、先客がいた。
 和秋の不純な動機かつ、目当てであったその当人だ。

「おはよう、ふたりとも」 

 隅の椅子に腰掛けて台本に目を通していた彼女が顔を上げて、小さく頭を下げてきた。その肩までかかるつややかな黒髪が、そっとゆれる。
 九条真姫(くじょうまき)――真姫先輩、演劇部の二年生だった。
 小柄でほっそりとした身体をセーラー服に包んでいる。まったく、おんなじ格好だというにに、神様はほんとに不公平で意地悪だ。
 あたしだってそれなりとは思っているけれど、その人にはかなわない。非の打ち所のない物静かな美少女と、ロングヘアなんてガラじゃない男勝りの女の子とを比べたら――

 
 ――そりゃあ、どっちを選ぶかなんて言うまでもないだろうさ。

 
「あれ、先輩ひとりですか?」

 あたしは少しだけ覚えた胸の痛みを押し殺して、声をかけた。
 そこにいるのは、真姫先輩だけだった。
 そのせいか、部室はいつも以上に広く見えた。
 早くはない。むしろ、あたしと和秋は少し遅れてきたというのに。残りふたりの姿はそこにはなかった。

「卓也と翔子ちゃんなら、出かけているわ。漫画研究会に、人手を頼みにね」

「あ、今度の公演ですね」

 あたしは納得した。
 我が演劇部は現在五人。文化祭の公演を最後に、三年の先輩達は引退した。現在一月、みんな入試を控えて、応援に来る余裕もなくなっている。
 現在、部員不足に悩む我ら演劇部。そうやって外に助けを求める必要があるのだった。
 演劇ってのは役者だけでは成り立たない。音響やら、照明やらの、舞台を支える裏方という存在が必要不可欠。

「いいんですか? ふたりで」

 と、和秋。
 真姫先輩と久我卓也……卓也先輩は恋人同士。それなのに、相川翔子――翔子先輩とふたりにさせていいのかということ。
 つまり、和秋の片思いはすでに失恋なのだ。もっとも、先輩は彼の気持ちは知らないはず。
 和秋は言っていないから。
 
『先輩を、困らせるだけだからな』

 ……そう、寂しそうに笑っていたから。
 

「わたしは、早く台詞を覚えないといけないから……」

 台本を動かして、ひかえめに微笑む真姫先輩。
 いやはや、美人って本当に得だよね。そういった何気ない仕草まで絵になるんだもの……。
 また、ちくりと胸が痛む。

 思わず、視線を逸らす。視線の先には、壁に貼られたポスター。どこかの劇団か何かのポスターで……何となく、そこに映った役者のひとりと目があった。
 ちょっと先輩に似た感じの女優さん。もちろん、何の言葉もない。

「だったら、いいんですけど」

 あたしの視界の端で……和秋はそう言っていた。きっと、本心だろう。片思いの相手の恋愛を気遣うような男の子。
 こいつは、そういう奴だから。
 あたしは知っている。

「心配してないよ。翔子ちゃんは親友だもの」

 だから、信じている。
 自分の恋人に手を出しはしないから。ふたりきりにしても、安心している。
 ――そう、真姫先輩は言っている。

「さあ、どうせだから読み合わせしようか」 

「わかりました」

 言って、台本をバッグから取り出す和秋。
 あたしは、部室の隅っこから椅子をふたつ持ってくる。
 

 前言、撤回。
 最初は真姫先輩を目当てだったかもしれない。けれど、今では一生懸命やっている。もしかしたら、先輩の前でいい格好をしたいだけかもしれないけれど……

『……どうして、どうしてこんなことに! 僕が……僕が、あの時気付いていれば!』

 もうほとんど台詞を暗記しているくらいの、頑張りは見せている。
 下手をすれば一番真面目じゃないのは、あたしかもしれなかった。
 真姫先輩がいるから入部した和秋。それに付き合ったあたしも、同じなのかもしれない。
 杉原和秋。
 小学校に上がる前からの付き合いで、家も近所で、いわゆる幼馴染みという間柄。腐れ縁と、言ってもいいかもしれない。

 だけど、あたし本人以外にはそんなこと言わせやしない。
 ずっと兄妹、姉弟みたいに育ってきた相手だった。
 そのはずだったのに……
 今は、認めよう。
 認めるしかない。
 

(あたしは、杉原和秋に恋してます)
 

 皮肉にも、気付いたのは和秋が初恋をしてからだった。
 彼が、入学した中学校で真姫先輩に一目惚れをしたせいで、あたしの中で生まれた嫉妬が気付かせたんだ。
 今更になって。
 今頃になって。
 近くにいて見えなかったこと。気付かなかったこと。そんな、昔読んだ少女漫画みたいな展開を、自分自身で、再現するなんて思わなかった。

 
「今、戻ったよ」

「ただいまー」

 三人で読み合わせをしていると、ふたりが戻ってきた。
 開けっ放しだった入り口から、姿を見せる。
 背の高い男子生徒が、卓也先輩。まあ、いかにもな二枚目。
 長い髪をポニーテールにゆわえた女子生徒が、翔子先輩。物静かな美少女の真姫先輩とは違った、少し吊り目のきつい感じのする美少女。

「おかえり」

 控えめな笑顔で、真姫先輩が出迎えた。