「もう、ほんと驚いたよー」

 ベッドの隣に椅子を寄せて、座りながら。お見舞いにと持って来てくれたリンゴを剥きながら、水無瀬さんが言う。

「倒れて病院に運ばれたって聞いてさ。でも、元気そうでよかったよ」
 いつもみたいに、明るく笑う水無瀬さん。

「あ……うん」
 僕はあいまいに頷く。彼女の顔を、まっすぐには見れない。
 何せ、昨日のあの光景がまだ目に焼きついているから。
 彼女は、どんな気持ちで僕のお見舞いに来てくれたんだろう。思わず、手元のシーツをくしゃりと握ってしまう。

(……決まってるじゃないか)

 ただの、ちょっと仲のいいクラスメートが心配だったからだ。
 それだけなんだから、妙な期待をしないようにと自分に言い聞かせる。

「はい」

 皿に盛ったリンゴを差し出してくる水無瀬さん。

「きちんと、ウサギさんにしたよ」

 言葉通り、かわいらしいウサギカットで並ぶリンゴ。にこにこと笑う彼女に、きっと僕はぎこちない表情だったんだろう。
 彼女は眉をひそめる。

「リンゴ、嫌い?」

「……あ、そんなことないよ」

「うーん、お見舞いにはリンゴがいいよって、お兄ちゃん言ってたんだけど。バナナの方がよかったかな?」

「……ううん」

 そんなことないよ、と言いかけて。

「え?」

 僕は、自分の耳を疑った。
 今、水無瀬さんは何て言ったのか。

「……お兄ちゃん?」

 半信半疑で、おずおずと言葉にしてみる。

「水無瀬さん、お兄さんがいるの?」

 もしかして、まさか。
 もう一度、昨日の光景を思い出す。気安く車に乗り込んだ水無瀬さん。その車を運転していたのは、つまりは……

「うん、いるよ?」

 言ってなかったけ? と水無瀬さんは小首を傾げる。
 僕は期待半分、不安半分で尋ねてみる。

「昨日、駅の近くで水無瀬さんを見かけたんだ。声をかけようとしたら、車が来てさ……もしかして、あの人が?」

「え? なーんだ。昨日いたの? うん、お兄ちゃん。そっかー、残念だったね。だったら乗せていってあげればよかったよ。だったら、倒れなくてもすんだかもしれないのに」

 脱力のあまり、眩暈がしたのは気のせいだったのだろうか。

「ん? どうしたの。こー君、気分悪いの?」

 彼女の顔が不安になって、その声が少し遠くなるから、きっと気のせいじゃなかった。

「ううん、大丈夫」
 確かに眩暈はするけれど、それは全然平気だった。
 僕の勝手な勘違いだったのだとわかったのだから、そのくらいどうってことはない。
 

 本当に、どうってことはない。

(ああ……本当に)

 何もかもが、バカらしい。
 バカらしくて、笑えてきた。

「……あ、あはは」

「こー君?」

「あはは……ごめん」
 突然笑い出した僕を、不思議そうに見つめる水無瀬さん。そんな彼女に頭を下げながら、

(……デート、どこに誘おうかな)

 そんなことを、僕は考えていた。


 窓の外には、澄み渡った青空が広がっていた。
 
 
       ◇
 

 少女の前で笑う少年を、わたしは眺めていました。
 駅前の、賑やかな街並みを眼下にそびえたつ――高いマンションの屋上から。
 はるか遠くの、窓の向こう。
 普通の人間だったら、きっとそんな先は見えないでしょう。
 だから、彼からはわたしの姿を見ることはできないはずでした。
 でも、それが正しいのです。
 これ以上、こちらの世界に関わらない方がいいのですから。
 

「やれやれ、全部丸く収まったみてーだな」

 すぐとなりに立つ長身の人影―紫電が溜め息交じりに言います。

「うん、めでたしめでたしってことだね」

 傍らで、小柄な姿――紫路が朗らかに笑います。
 織本耕介君の様子から、もう自分の世界から抜け出そうという気はないみたいでした。

「しかし、何だよ。全部は、あいつの被害妄想か? 肩透かしを喰らう結末だな」

「そうかもしれないね」

 肩をすくめる紫電に、わたしは小さくつぶやきます。
 

 でも、これでいいのです。
 

 ――死にたい、と彼は言っていたけれど。
 わたしには違う声で届いたのだから……。
 

「だから、これでいいと思う……」

 その言葉に、紫電は何かを言いたそうでしたが――結局、言葉を飲み込みます。
 変わらずに、紫路は笑顔を浮かべています。
 
 決定的に隔たってしまった世界を、帰ることはできません。
 どんなに悔やんでも、二度と戻れません。
 どれだけ望んでも、絶対にやり直せません。
 たった一歩を踏み出してしまうだけで、何もかもが、壊れてしまうのですから。
 そう。
 今こうして、ここにいるわたし自身のように。
 

 轟……、と。
 風が、吹き抜けました。
 長い黒髪が、ひるがえります。
 

「さあ、帰ろうか」

 その言葉を残して。
 わたしは、この世界を去ります。
 そうして、また帰るのです。
 向こうの世界に。
 また、わたしを呼ぶ声が届くその時まで。
 灰色と鉛色に染まる世界に、たたずみながら。墓標のように突き立つ無数の風車が。
 くる、くる、くる。
 来る、繰る、繰る……と。
 静かに、哀しく、寂しく、回り続る――その世界で。
 
 誰かの声が、届くまで。
 

 ――わたしは、これからもずっと待ち続けます。