「……おやすみなさい」

 彼女の声が、僕の耳元で囁いた……。

      ◇


 泣いている。
 友人だった少年が。
 ほのかな恋心を抱いていたクラスメートが。
 母さんが。
 父さんが。

 みんな、泣いている。
 僕の目の前で、泣いている。
 僕は、たまらずに声を上げる。
 けれど、僕の声は届かない。
 懸命に手を伸ばす。

 けれど、僕の手は届かない。
 もう……僕の声は、誰にも聞こえない。
 僕の姿は、誰にも見えない。 
 それを知って、そのことを思い知って。
 絶望に、心が引き裂かれる。
 その痛みに――
 
 僕は、絶叫した。

 
「…………!」

 目を覚ますと、真っ白い天井が映った。

「え?」

 状況がわからない僕は、小さな声を漏らす。もやのかかる頭で理解しようとした途端、

「耕介!」

 誰かの叫び声が、僕の名前を呼んだ。

「……かあ、さん?」

 僕の間近で、顔をくしゃくしゃにしているのは―母さんだった。
 一瞬、そのことがわからなかった。意識がまだぼんやりしていたせいもあるけれど、母さんのそんな顔は、このところずっと見たことがなかったから。
 僕を怒る、不機嫌そうな母さんの顔以外は、ずっと。

「ここ、どこ?」

 辺りを見回す。ベッドに寝ていたらしい。けれど、僕の部屋じゃなかった。真っ白い壁と、真っ白いカーテン。窓の外には、穏やかな青空が広がっていた。

「病院よ」

「……病院?」

「覚えていないの? 公園で倒れていたのを、救急車で運ばれたのよ。凄い熱を出して……お医者さんは、過労だって」

 そこで、母さんは言葉を切った。すまなそうにうつむく。

「ごめんね、お母さん。そんなにまで、あなたに無理をさせていたなんて……」

「……え? あ、いいよ。そんな……謝らないでよ」

 僕は慌てて、起き上がる。

「顔、上げてよ。母さん」

 母さんは、顔を上げる。僕の顔を見て、また泣きそうな顔になって。
『ああ、忘れていたわ』と言いながら、近くにぶら下がっていたコードのスイッチを押した。

「今、先生が来るからね……?」

 そこで、僕はそれがいわゆるナースコールだということを知った。漫画か何かで見たことはあるけれど、実物を見るのは初めてだった。 
 物珍しそうにそれを眺めながら、泣きじゃくって何度も頭を下げる母さんをなだめているうちに、白衣を来た医者の先生がやってきた。
 母さんと先生に、状況を聞かされた。夜の公園で高熱を出して倒れていた僕は、誰かの連絡を受けて救急車でここに運ばれたらしい。

 それが、昨晩のこと。
 病室の時計は午後の二時を少し回っていたから、あれからちょうど十二時間近くが過ぎていたらしい。
 原因は、過労。つまり、受験勉強の無理がたたったせいだろうということだった。とりあえず今日一日はこのまま入院で、明日には帰れるらしい。
 着替えを持ってくるからと、母さんは一旦家に帰った。仕事が終わったら、父さんも見舞いに来ると言っていた。話を聞くと、午前中までは父さんも付き添ってくれていたらしい。

 先生に、僕の身体が一応大丈夫だと聞いてから、仕事に向かったそうだ。
 その病室は個室じゃなかったけれど、ちょうど僕しかいなかったから。話し相手もいなくて、時間を持て余していると、

「よ、よう」

 意外な人物が、姿を見せた。

「城阪?」
 それは、城阪藤二だった。学校帰りなのだろう、制服姿だった。
 そいつは、昨日は嫌味を浮かべていた顔にバツの悪そうな表情を浮かべて。

「具合、どうだ?」

 そんなことを、訊いて来た。

「……うん、過労だってさ」

「そっか」
 城阪は僕から微妙に視線を逸らしながら、手近な椅子に座る。
 背負っていたバックを足元に置いた。

「ほらよ」

「え?」

 突きつけられたのは、缶のスポーツドリンク。

「しけてるけど、見舞いだ」

「あ、ありがとう」

 戸惑いながらも、受け取る。よく冷えた感触が、どこか火照る身体に心地よかった。
 僕は、城阪をまじまじと見る。

「……な、何だよ?」

 その視線に気が付いて、身体をふるわせた。

「いや……別に」

 僕は、そう答える。眉をしかめる城阪。その顔は、何だかとてもなつかしかった。
 そう、それは城阪と受験の競争相手になる前に、友人として僕に見せていた顔だったんだ。

「じゃあ、な」

 しばらく他愛のない話題を交わしてから、城阪は立ち上がった。少しのぎこちなさはあったけれども、昔みたいな友人として。

「そろそろ帰るわ」

「あ、うん」

 けれど、
 カーテンを開けて、そこで城阪は立ち止まる。

「ん?」

 怪訝な顔をする僕に、彼は背中を向けたままで、

「……なあ、織本。お互い、志望校変えねーか?」

「え?」
 ためらいがちにそんなことを言ってくる。予想外の言葉に、僕は声を漏らした。

「いや……推薦めぐって、お互いぎすぎすしちまっただろ? なんかなーと、思ってよ」

 それだけ言うと、城阪はカーテンを閉めて行ってしまう。

「…………」

 城阪の残した言葉。
 多分、その意味はわかった。
 僕が倒れて、つまり受験のせいで無理をしすぎたことを知って……争っていた自分に、思うことがあったのだろう。
 そうだとしたら――
 いや、きっとそうに違いない。

 だから、嬉しかった。
 友人だった、仲のよい友人だった城阪が帰ってきた。そんな気がして、それはきっとその通りだったのだろうから。
 僕は小さく笑って、ベッドの置き台の上に置いてあった缶ジュースを手に取った。
 
 その次に姿を見せた相手と顔をあわせるのは――正直、複雑だった。