「ぐあああああああああ!」

 変貌を遂げた少女が、その姿に相応しい絶叫を上げた。もはや少女のものではなく、けだものじみた叫び声。
 そのつりあがった瞳で憎々しげに、紫姫を睨みつける。
 対照的に。

「孕(はら)んだ泥を、吐き出して……」

 紫姫は、詠うように言葉を紡ぎ始める。

「……纏(まと)った衣を、脱ぎ捨てて」

 両手に握った刀で、静かに弧を描きながら。

「黒く染まった諸手(もろて)を漱(すす)ぎて」 

 ゆっくりと、歩み出す。
 

「ああああっ!」

 少女が、紫姫に飛びかかった。
 その両手には、鋭い鉤爪が生えそろっている。紫姫の細い身体なんて、あっさりと切り裂かれてしまいそうだった。
 けれども、紫姫は歩みを止めようとはしない。
 今度は、僕も黙って見守っていた。彼女のあまりにも落ち着き払った様子と、その不可思議な光景が、僕から不安の全てを奪い去っていたから―
 

「骸は、土に還りなさい」

 紫姫の周囲に、再び無数の花びらが現れて、静かに舞い始める。

「御霊(みたま)は、天に昇りなさい」

 花びらは、その刀身に絡み付いて、その刃を薄紫色に染めていく。

「そうして、流転の水中(みななか)に」

 その鉤爪が届く刹那に、紫姫は刀を振り下ろした。
 

 花びらが舞った。
 一面に、舞い踊る花びらが、少女の異形を覆い隠す。まるで、優しく包み込むみたいに――
 

「その名を抱いて、発ちなさい……」

 振り下ろした刀を、振り切った。
 
       ◇
 
 世界が、色を取り戻す。
 先ほどまでの夜の公園に、僕は立ち尽くしていた。
 こちらに背を向けていた、彼女が振り返る。その姿はセーラー服に戻っていた。
 その肩に止まる、白い一匹の小鳥。時代がかった袴姿だったシデンは、今はスーツ姿で彼女のとなりに立っている。
 僕のそばにいたシロの姿も、化け物となった少女の姿はどこにもなかった。

「……あ、あの」

 何か言おうとして、けれどもなんて口にすればいいかわからなかった。何せ、状況は僕を置き去りにして進んでいって、結局何ひとつわからないままだったのだから。

「君は……いったい、何者なの?」

「シキ、と呼ばれるわ」

 彼女が答える。

「メールがつながったのは、君……なんだよね?」

「ええ」

「だったら、僕を迎えに来てくれたんじゃないの?」

 そう、僕はそのためにメールを送った。そのはずだったんだ。

「違う」

 僕の言葉を、彼女――紫姫は否定する。

「だったら、どうして……何で、君につながったのさ?」

 わけがわからない。
 僕は死にたかったから、だから、彼女につながったんじゃないのだろうか。でも、だったら、さっきの赤い目をした少女は、

「多分、あなたの心がわたしに共感したんでしょうね」

 彼女はスカートのポケットに手を入れる。
 取り出したのは、薄紫色の携帯電話だった。

「あなたの聞いた話の真偽とか、詳しいことはわからない」

 それは、シキメールと呼ばれる噂話。

「…………」

「ただ、わたしという存在とつながって道ができた。そこに、先ほどのような存在も呼び寄せてしまった」

「さっき……」

 先ほどの少女の姿を思い出して、少しだけ恐怖がよみがえった。

「多分、あなたに近い思いで命を絶ったヒト。その無念のせいで成仏できず現世をさ迷って、同じ気持ちを持つあなたを引きずりこもうとしたのね」

 何となく、わかってきた。だけど、僕にとって一番大事なことはまだ確認できていない。

「……君は、君は、僕を連れて行ってくれないの?」

 この場所から、遠い世界へ連れて行ってはくれないのだろうか。

「連れて行って欲しいの?」

 問い返してくる。

「そうだよ!」

「どうして?」

「嫌なんだよ! もう、こんな世界にはいたくないんだよ!」

 落ち着き払った彼女の声が苛立たしかった。僕は、さっきも言った言葉を、悲鳴のような声で繰り返す。

「だって、みんな優しくないんだ! みんな、僕を傷付けるんだよ! だから、連れて行ってよ! ここから……こんな場所から、お願い……!」

 そこで、僕は言葉を切った。
 何時の間にか、すぐ間近に彼女の顔があったからだ。鼻先と鼻先が触れ合う距離で、その大きな瞳が僕を覗き込んでいる。 
 吐息と吐息が、交じり合うほどに近い。
 

 ――ほんのかすかに、甘い香りがした。
 

「え? ……あ」

 不意をつかれて、僕はうろたえる。整った顔立ち。透けるような白い肌。つややかな黒い髪。まるで、精巧な人形のような紫姫の姿に――
 くらくらと眩暈がする。
 気が付くと、彼女は僕の胸にそっと片手を当てていた。多分、心臓の位置に。 
 力が、抜けていく。
 強烈な睡魔にも似た感覚。意識が、真っ白に塗りつぶされていく。
 

「……おやすみなさい」

 彼女の声が、僕の耳元で囁いた……。