「うわっ、美都どけっ、」
 達郎君が、本と人がひしめき合う店内を、積み上げた本を抱えてゆらゆら走る。勢いがついて止まらなくなったらしい。振り返ると、ここ何日かいつも同じ時間に見かける女の子と目が合った。沢コーの制服。ちょっと短めなスカート、すらっと伸びた足、小さな色白の顔、アイドルばりの大きな目。そして背中の中ごろまであるさらさらのきれいな髪。可愛い子だな・・・こんな子なら達郎君の隣に並んでも不自然じゃない。毎日来てるってことは、達郎君の彼女?達郎君ばっかりを見ているし・・・もしそうだったらどうしよう。
 私がくだらないことをダラダラ考えながら積まれた本にはたきをかけていると、その子は足元にあった文庫本の一冊を手に取った。買うのかなって思いながら見ると、その本をすっと自分の鞄の中に入れた。万引き?しかもその瞬間、私を見てくすって笑った。店長も達郎君も絶対見てなかった。どうしようどうしようと思っていたら女の子はスタスタ店から出て行っちゃった。うわー店長、ありがとうございましたなんて言わないで~。私は冷静に、冷静に、って自分に言い聞かせながらそのあとを追った。
「お客様」
「何」
 冷ややかな応答と視線。
「本の代金がまだ、ですよね」
 嫌な感じの胸の高鳴りと、手の平の冷たい汗。怖くて逃げたくなるのをぐっと抑えた。
「何のことですか?」
 強くきつい目で私をにらむ二つの目。
「とぼけないで下さい」
 だんだん語気が上がる。その子の余裕が、嫌だった。万引きが目的なんじゃない。全身でそれを語ってる。私に向けられた何か、敵対心みたいなもの。それが歯がゆい。
「店の前で何やってんだ」
 達郎君が中から出てきて、私たちを交互に見た。
「代金をもらってないんです」
 達郎君の顔つきがさっと変わる。
「そんなの嘘よ。私は万引きなんてっ」
 うわあ~ずるいよ、泣くなんて!
「わ、私見たもん。鞄の中に文庫本を入れたところ」
「そんなことするわけないっ」
「したよ!」
「美都、」
 達郎君が手で制した。
「すみませんが、鞄の中を見せてもらってもいいですか」
「ええどうぞ」
 その子のやけにきっぱりとした態度に、嫌な予感がした。達郎君は休憩室にその子を連れていき、店長にも事情を話して来てもらった。私はレジを代わって、変にばくばくしている心臓を手で押さえた。
 確実に、あの子が文庫本を自分の鞄の中に入れるのを見た。間違いない。きっと見つかるはず。どちらにしろあの子は達郎君目当てでこの店に通って来ていて、近くにいる私が嫌だったんだ。でも、どうして万引きなんかしたんだろう?逆効果だと思うんだけど・・・。
 本を鞄に入れた時のあの挑戦的な視線、細い足、きれいな指、万引きする度胸(良い度胸ではないけど)。私に無いものばかり。そんな断片がぐるぐると無限に駆け巡った。
 やけにゆっくりドアが開いた。その子が私の横をしたり顔で通り過ぎるのが、スローモーションのように見えた。頭から血の気が引いてく。
「本は見つからなかったよ。鞄もコートのポケットも調べさせてもらったんだがね」
店長が困った顔をして言った。
「そんな、」
「本当に見たのか?ぼーっとして見間違えたんじゃないのか」
「私、目だけはいいもん」
「でもね、本が見つからない限り、どうしようもないんだよ」
「店長、あの子嘘ついているよ、本当だよ本当に、」
「人に迷惑かけんのも大概にしとけよ」
 達郎君が、本気で怒っているのがわかった。私にはその視線が耐えられなかった。
「小山さん!」
 店長の声を振り切って店を出た。勝手に涙がぼろぼろ溢れてくる。体中がズキズキ痛い。どうして信じてくれないの?証拠がないから?私の行いが悪いから?
走り疲れて道の真ん中で立ち止まった。涙は頬を通り過ぎて首を伝って流れていく。深呼吸しながら歩くと、少しずつ落ち着いてきた。私、エプロンつけたまま出てきちゃった。鞄も店の中だし。本当に行き当たりばったり。でも定期と財布はポケットにあるから、このまま家に帰ってしまおう。私、子どもだな。証拠がないんだから主張が通るはずがない。曲がりなりにもお客様だし。罪悪感も後悔も、あとからくるなんて遅すぎる。
 上を向くと、昼間のままの雲が薄暗い空に漂っていた。まるで白夜みたいに、雲が月の光を浴びて発光している。もう、私は達郎君に会えないかもしれない。そう思うだけで辛かった。
 次の日、学校をさぼって木戸書店へ鞄を取りに行った。入るのに数分かかった。意を決して店へ入ると、店長は案外優しく迎えてくれた。
「以前はよくあったんだよ。小さい本屋で、店員は僕しかいなかったから目の届かない所が多くてね。ランゼン君が働くようになってからは減ったんだけどね。でも、やっぱりいくら見たと言っても証拠がなくちゃだめなんだ。そこは、わかってね」
「ハイ」
「小山さん」
「ハイ」
「これからも続けてね」
 ヤバイ、泣いちゃダメだ。甘えちゃダメだ。私は黙ることで涙をこらえた。店長は開店作業を一旦やめ、またシャッターを下ろした。そして私を休憩室へ連れて行ってお茶を入れてくれた。
「ランゼン君がバイトに来てから、働かせてくれって言う女の子が多くてね。でもランゼン君は無愛想で口調も荒いでしょ。すぐにやめちゃうから女の子は雇ってなかったんだ」
「私一応、女なんですけど」
 店長はフフフ、と笑ってお茶をすすった。
「だから一度はお断りしたよね。でも、お金はいらないから働かせてくれって言う子は初めてでね。しかも不器用ながら一生懸命やってくれているし」
「迷惑かけどおしなのに、私」
「僕から見たら大したことじゃないよ。一番重要なのは諦めないことだからね」
 店長はにこにこ笑って言った。て、店長ぉ!
「学校はいいのかい?」
「今から行きます」
「鞄と制服はそこにあるから。ランゼン君もね、言い過ぎたって反省してたよ」
 私は着替えて鞄を持って店を出た。ほっとした。だって絶対クビだって(これ初めてじゃないけど)思ってたもん。はーっ、とにかく緊張した。一気に脱力した。そして思い返してみて気付いた。昨日の女の子も、本当はあそこでバイトしたかったんだ。それができてる私が羨ましかったんだ。それがわかってしまうと、同じ思いが切なかった。

「美都、昨日はスマン、言いすぎた」
 少し早く来て紙袋を補充していると、鞄を持ったままの達郎君が横に来て頭をわしゃわしゃかき回しながら言った。彼なりの照れ隠しなんだろうな、きっと。って(ちょっと大人ぶって)考えた。
「私のほうこそごめんなさい、急に店を出ちゃって・・・反省してます」
「あのさ、あー・・・いいや、帰りに言うわ」
 そしていつもと同じ帰り道。いつもと同じ制服。でも、いつも違った音で心臓は鳴る。毎日毎日新しい何かを発見する。
ほんのちょっとだけ太った半月が昇ってきたばかりの夜空。今日は星の光が明るく見える。
「学校で昨日の沢コー生探し出したんだ。一年だった」
「えっ沢コーってクラスはいくつあるの?」
「二十一クラス。七クラスめで見つかったけど、結構しんどかった」
「うわー、大変だったよね・・・ごめんね」
「見つけて問い詰めたら、盗ったって言った」
 私は何も思わなかった。予想はついていたことだから。ムカつくとか通り越して、何だか彼女がかわいそうだった。
「言いたいことあったら会わせるよ」
「いいよ、いいよそんな、もう。その子の気持ちもわかる気がするし」
「万引きの気持ちがか?」
「違う違う。別の」
 はあ?と達郎君が首をかしげている。今はまだ、内緒にしておこう。いつか、言える時がきたら。
「あ、カレーの匂い。山田さんち、今日はカレーだね」
「山田?親戚?」
 私が笑うと、達郎君も笑った。つられ笑い。でも、急に達郎君の目が真剣になった。心がまた、違う音をたてた。ガラスが触れ合うみたいに、センチメンタルな音。歩いていることを忘れてしまいそうだ。
「泣かせてごめんな。美都のこと、信じてなかったわけじゃない・・・ダメだ。言い訳だ」
 そんなこといいのに、と言おうとしたら達郎君の言葉にさえぎられた。
「何かお詫びする。何がいい?」
「いいって、全然」
「早く言え」
 きっと達郎君も悩んだんだろうと思うと、裏腹に、嬉しかった。私のことを考えてくれたんだと思うと。
「じゃあ映画。映画を一緒に見に連れてって」
「そんなことでいいのか?」
 そんなことって!私には十分すぎる。だって・・・だってそれってデートじゃん!
「今週の日曜は?午前練習だから、午後から空いてる」
「わかった。日曜」
 やったーっ。私は声に出さずに叫んだ。日曜日も会えるんだ。しかも映画だなんて恋人たちの初デートの代名詞じゃーん。よく思いついた!偉いぞ自分!達郎君の電車を見送って、ベンチに座りながらうずうずうずうず。日曜日は明後日。何を着ていこう?
「よかったじゃん」
 にやけちゃう目じり。緩んじゃう頬。地に足がついてないってこのことを言うのね。
「私が知らないうちにそこまでねえ」
 ハルが肘でぐりぐり私の肩を押す。押されて椅子からずり落ちた。
「あいたた・・・ハルはデートしたことある?」
 言いながら、ハルの髪の毛が冬の光に照らされて金色に揺れるのに見とれた。
 昼休みのざわめく教室。淡い、日の当たる窓辺。二階の教室からは中庭の噴水が見える。光を受けてしぶきを上げる水は、ダイアモンドをちりばめたようにキラキラ光っていた。
「初デートなんてちょー前のことだから忘れた。あのね、この年でデートの一つや二つ、してない方がおかしいの。」
「ずるいよずるいよハルばっかり」
「・・・で、カツラはやっぱりしていくの」
「うん」
「で、いつはずすの、それは。髪の毛が長い短いで女の子と付き合わないでしょ、ランゼン君も」
でも、やっぱりヅラなしで会うのは怖いな。私に自信をくれた代物だし。
「プッ、ヅラねえ。ヅラ・・・面白い響きだよねえ。何度聞いても」
「もーハルは」
「あなたは、もーう、忘れたカツラ~♪なんちゃって」
 ハルがおかしくなってきた。もう、他人事だと思って。
「カツラ・・・ヒーッヒッヒッヒッ」
 笑い転げるハルを眺めていたら、肩越しに隣のクラスのトーコが私に向かって手招きしているのが見えた。やっと笑いやんだハルを連れてドアのところまで行った。
「事務連絡。土曜日は午後練習、日曜日は先生法事のため休み。水曜の祝日は沢コーで地区予選。以上。お?美都嬉しそうじゃん。日曜に何かあるの?」
「それが美都ってばね、ぐふふふふ、フグッ」
「フグ?」
 無理矢理ハルの口元を手で覆って教室の隅に引っ張っていった。
「もーハルー?さっき何て言おうとしたの?バイト禁止、男女交際禁止でしょ?」
「硬いこと言いっこなしよ。ルールは破るためにあるのよ」
「ハルは気楽すぎだよ」
「失礼ね。何を言うか。日曜日に合コンいこうなんて誰も考えてないって」
「えーするのー?」
「美都も来る?」
「行かないっ」
 ハルったら本気なんだか冗談なんだか。でも、日曜日も午前練習くらいはあるかなって思ってたからラッキーだったな。もしやこれって良い前触れ?