昨日の夜が特別寒かったからか、達郎君の風邪がうつったからか、起きたら布団がすっ飛ばしてあったからか、どうやら私はめでたく風邪をひいたようだ。
「よかったね。あんた馬鹿じゃないよ」
「ハル~嬉しいけどなんか悲しい~」
「しかもランゼンウィルスだよ。喜ぶべきことだね」
 鼻水せき、寒気と倦怠感でぼーっとしつつ隣のハルを見た。
「もう今日は部活休んで帰りな。こじらせると怖いよ。風邪をなめるなよ」
「ヤダ」
 もうみんなウオーミングアップを始めている。緑色の網で半分に仕切られたいつもより狭い体育館。網の向こう側ではバレー部がアタック練習をしている。
「やめときなって」
「私は始めるよ、ハルも早く」
 言った拍子に水っ洟が垂れた。
「集合、試合近いからゲーム形式でやるよ」
 トーコが大きな声で言い、後輩の返事が続いた。いつもよりも広く感じる体育館。照明もきつい気がする。
「パスパスッ」
「伊藤のマークずれてる」
「鈴木、マークきつくして、マンツーマン」
 女の子の元気な声が響く。バスケットシューズが床とこすれるキュキュっという音。時々、オフェンスとディフェンスがごっちゃになって、右手と左手の感覚が逆になった。
何もかもが頭を素通りしていく。体だけが反射的に動いていて、心がそれについていけてない。ってゆうか何にも考えられない。シュールにゆがむ景色をただ、映していくだけ。しっかりしろ、美都。全部自分のせいでこうなったんだ。自分の責任だ。
 でも、私の身体能力は精神力より弱かった。腕と足、口、目、鼻、手の平。全身がバラバラに動いて、そしてバラバラに機能を停止した。美都、って誰かが私を呼ぶ声が遠くで聞こえた。
目を覚ますと、私の目に誰かの影が映った。私を覗き込む、複数の影。そして白い世界。
「美都、」
 聞き覚えのある、懐かしい誰かの声がした。ここはどこだろう?眩しさに目が慣れると、その影の一つ一つが実体を伴って見えてきた。
「お母さん、」
 お父さん、ハル、トーコ。
「あんた倒れたのよ」
 お母さん、エプロン姿。ご飯を作ってる途中だったんだ。お父さんも背広姿のまま。ハルとトーコはジャージ上下。
「だからやめとけって言ったのにい」
 ハルが泣きそうな顔をして言った。
「あんたいきなりバッタンだもん、みんなびっくりしてたよ」
 トーコがよくする、困った子、という顔で言った。みんなが安心した、という表情で私を覗き込んでいるのがわかる。私もちょっと泣けた。
「今何時?」
「十時よ。あらいけない、お医者様呼んでくるわ」
 お母さんがやわらかく微笑みながら言った。十時か・・・バイト休んじゃった。ってゆうか連絡もしてない。クビになっちゃうな。あー、大失態。
 白いカーテンの隙間から見える景色は真っ黒。今夜は星も見えないんだ。風で木が揺れる、寂しい音がする。
「ゆっくり休みなよ」
 ハルとトーコはそう言い残して帰っていった。
「お父さん、心配かけてごめんね」
「びっくりしたぞ、会社に電話がきた時は」
 お父さんに頭を撫でてもらうのは何年ぶりだろう。おっきい、暖かい手。達郎君の手に似てる。本当は、ここにいるわけにはいかないの。会いたい人がいるの。確かめたいことがあるの。あの人に、会いたい。会いたいよ。いつから私は、こんなにわがままになったんだろう?

「昨日は連絡もせずに休んじゃってすいませんでしたっ」
 店に入ってすぐ、右手にあるレジにいた店長に、下げられるだけ頭を下げて謝った。
「仕方ないよ。ランゼン君に続いて君も風邪とはね。風邪は怖いね。次は僕かな」
 店長がにこにこ笑って言った。ああ・・・天使の輪が見える。
「昨日はランゼン君が治って来てくれたから大丈夫大丈夫。昨日はランゼン君の方が小山さんのこと聞いてたよ」
「達郎君、今日は来てるんですか?」
「今、はさみが壊れちゃったから買いにいってもらってる。若い人は回復が早くていいね。あ、気付くのが遅くてごめんね。小山さん、ショートカットも似合うね」
 ・・・ま、まさかぁ~!恐る恐る髪の毛に触れると、いつものショートカットの襟足があった。やっぱりカツラ忘れてきたぁ!
「て、店長これからお葬式なの忘れてましたっはやびけしますっ」
 早口でそれだけ言うと、目をつむって店を飛び出した。神様、どうか達郎君に見られていませんように!右、左、よかった、いなかっ・・・いた!とっさに向かいの庭先に逃げ込んで塀際に立った。ありがとう山田さんの庭!わんちゃんいい子だから鳴かないで!早く、早く通り過ぎて~。あ~カツラがあればな~色々話せたのにな~カツラの馬鹿~それより自分が馬鹿~。
 半透明の小袋を下げて通り過ぎる達郎君を見送って、吠える犬に謝り山田さんの家に感謝して早足で駅に向かった。まだ夕暮れの街並みが、何となく虚しく目に映る。空には星が一つ二つと増えていく。気温は下がり、空気は透明度を増していく。家々の窓には、優しいオレンジ色の灯がともり始める時間帯。
 私、嘘ばっかりついてるな。バイトのこと、カツラのこと、今日のこと。積み重なった嘘は、いつか崩れてしまうもの。もうこれ以上嘘を重ねながら達郎君と会うのは難しいかもしれない。いつか何もかもバレて、そして、私嫌われるのかな。達郎君は私がショートカットだってわかったらなんて言うのかな。嘘つきって言うのかな。嘘ついてるってことは、私、色んなことから逃げてるんだなあ。
カサカサチクチクした痛み。私は何から逃げているんだろう。何に怯えているんだろう。でも、達郎君のそばにいたい。嘘をつき通してでも、そばにいたい。それが本音。一つ手に入れると次が欲しくなる。神様、この恋はどうなるのでしょうか。
「おい美都、新人のくせに二日も休んでんじゃねーよ」
「達郎君だって休んでたじゃんっ私も風邪ひいたんだよ、誰かにうつされてー」
「悪かったな」
 急に声のトーンを落として達郎君は言った。そっぽを向いて、怒ったように。
「見舞い、ありがとう」
「よおしよおし素直でヨロシイ」
「て、てめえなめんな」
 達郎君は真っ赤になって怒鳴った。遠くで店長が、しい~と指を口に当ててこっちを見た。毎度の光景。あ、店長には賄賂饅頭を贈っておいたから口封じは完璧。
「イヒヒヒヒヒッ」
「いい加減気持ち悪い笑い方すんのやめろっ妖怪が来たと思うじゃねーか」
 そう言いながらも達郎君は、本を蹴飛ばし、万引き撲滅ポスターをやぶり、敷物にけっつまずいた。これっていつもの私の役割だよ。達郎君、まだ風邪治ってないの?
「二人とも、今日は二日分働いてね」
 店長がくすくす笑いながら言った。私も笑った。達郎君は怒った顔のままうなずいた。こんな風に笑えても、心の隅ではもう一人の私が冷静に言う。あんたは本当の美都じゃない。そんなにうまくいくはずないよ。本当は弱虫で意気地なしなんだから、って。 嘘が、積み重ねた嘘が、どんどん私を侵食していく。
「お先に失礼します」
 店長のピカピカ頭にさよならと言って、私たちは歩き出した。
「風邪はもういいのか?」
「うん、大分。達郎君も治ってよかったね」
 高い横顔がうなずく。その向こうに、子供の頃作った切り絵みた半月が懸かってる。
「スカート、寒くねえの?」
「しょうがないじゃん、校則なんだから。いいよねー男子は」
「美都はスカートくらいはかないと女子高生に見えないか」
「失礼ですよ、達郎君」
 あ、達郎君が笑った。空の彼方に、今にも溶けてしまいそうだ。
「・・・あ、そうだ、あのさ、」
「何?」
「やっぱいいや、なんでもない。気にするな」
「気になるじゃん」
「今更だけど、美都はどうしてあの本屋でバイト始めたんだ?」
 ドキ。心臓が私の意思に反して大きく音を立てた。少し、視野が狭まる錯覚。
「お前もしかして」
 え?えーっ!いきなり?キャー!イヤー。こんなところでーっ。
「俺を、」
ま、待って達郎君、ストップ!
「俺を手本にしているのか?」
 あ、あうー。
「なんだそうだったのか、早く言えよ」
 達郎君はちょっとうつむいた、ように見えたのは、私の勘違い?
「お前がバイトに来始めてから一ヶ月か」
「そんなにたつんだ。始めたのって先週のことみたいに思える」
「最初は本当にストーカーかと思った。それがいきなり同じバイトってなあって」
 私は顔を上げた。オリオン座が目に付いた。大きな、きっといつまでもこの手につかむことのない星たち。遠いな。どのくらい離れているんだろう?そして不意に達郎君と目が合った。街灯の冷ややかな光の下で、海よりも深いその瞳と。本当に、その目の中に私はいるの?言ってしまおうか。今、ここで、何もかも。自分の気持ちも重ねた嘘も。
「美都」
 今、今言おう。
「本、好きか?」
「す、好きっ」
「俺も好きなんだよなー」
 あ、あうー。
「バイトしてると割引で本買えるかなって、下心あってこのバイト始めたんだ。似合わないよな、俺が読書してるなんて」
「そんなことないよ!」
 私は無闇に明るく言った。
「どうして達郎君ってバスケうまいのにキャプテンじゃないの?」
「話、飛びすぎ。でも、俺がいつキャプテンじゃないって言ったよ?」
「あ、そうだっけ、何となく」
「しかも、いつバスケやってるって言った?」
「雰囲気雰囲気。バスケやってそうじゃん。背、高いし」
 あわわわわわ。何が言っていいのか悪いのかの区別がつかなくなってきた。
「協調性がないんだろうな、人をまとめるの、苦手だし」
「あー、苦手そう」
「失礼な奴。まあ、飽きっぽい性格だし。バイトが一年続いたのが嘘みたいだしな。バスケに限っては小学生からだから奇跡に近い」
 時間がもっとゆっくり流れて、もっと駅までの道が遠くなってしまえばいい。このままどこまでだって行ける気がしてるのに、駅はもうすぐ。
「バスケ、好きなんだね」
「まあな」
 私も大好きだよ。バスケも、達郎君も。
「藤コーってバスケ部あるよな」
「え?何で私が藤コーだって知ってるの?」
「制服見ればわかるよ」
「そっか、そうだよね。この制服って女子高っぽいもんね」
「何慌ててんの」
 達郎君が意味ありげに微笑む。何か、してやられたっぽくて悔しい。
駅が見えてくる。どうして達郎君といる時だけ、神様は時間の螺子を早く巻いてしまうんだろう。でも、楽しかった。忘れたくない思い出がまた一つ増えた。宝箱にしまって、鍵をかけて、たまに取り出して眺めよう。
「達郎君さあ、もてるでしょ、女の子に。告白とか、されたことあるでしょ」
「女は、顔がよけりゃなんでもいいわけ?」
「誰の顔がいいって?」
「俺だよ、俺」
 そして二人同時に笑い出す、改札の前。でもね達郎君、誰だってきれいな人に憧れる。自分の持ってないものを持っている人に惹かれてしまうんだよ。私だってそう。
「じゃあ明日」
「うん、明日ね」
達郎君が、別のホームへ吸い込まれていく。明日まで会えないんだね。明日。何て長い時間。