「美都、空いてる!チャンスだよ」
「オッケ」
 飛び散った汗でツルツルすべる、広い、明るい体育館。ハルから絶妙なパスを受け取り、ゴールに体を向ける。ディフェンスは近寄ってきてる。得意のドリブルフェイントで一人抜き、あとはゴール下のディフェンスを交わすだけ。味方の声が遠くで聞こえる。目の前の敵は、誰だろう?
「美都!」
 ハルの声が響く。大丈夫、ゴール下にハルがいる。身を縮めてディフェンスの体を避け、狙うステップインシュート。
「ナイッシュ!」
「あと、ナイスフェイント!」
 やっと周りの声が戻ってくる。交わす手の平。気持ちのいい高揚感。私はつい気になって先生の方を向いた。見ててくれたかな、今の。あ、少し笑ってる。
「ほら美都、集中!」
 先生の、ハスキーな声が聞こえる。
「ハイッ」
 私はその声に負けないように大きな声で返事をした。
「美都、」
 練習のあと部室の脇の水道で顔を洗っていると、キャプテンのトーコが話しかけてきた。
「今日調子いいね、ちょっと前までスランプだったみたいだけど」
「うん、楽しさが戻ってきた」
「スポーツなんて楽しくてなんぼだからね。次の試合には出してもらえるんじゃない?」
「だといいなあ」
 中学の時から万年補欠の私。だから公式試合の出場経験はゼロ。アガリ症なのを見透かされているのかもしれない。
「美都が落ち込んだのは珍しいよね」
 二人で、部室の壁に体を寄せて座り込んだ。風は冷たいけど、まださっきの余熱で体はぽかぽかしていた。
「実は、美都に自分で考えさせたいから相談には乗るなって言われてたんだ。先生に」
「え、そうなの?気付いてないと思ってた」
「そんなわけないじゃん。わかりやすすぎだもん、美都は」
 そっか、あれからハルも何も言ってこなかったもんな。
「冷たいかもしれないけど、先生の言う通りにしてよかったって思うよ。美都はちゃんと自分で答えを見つけられたみたいだし」
 ショートボブの髪の毛を揺らして、トーコは笑った。私よりも背の高い、結構強がりなトーコ。でも、思いやりは一番。
「話は変わるけど、昨日用事あって沢コーの近くまで行ったんだ。そしたら美都にそっくりな人がいて・・・美都って一人っ子だよね?」
 藤コーはバイト禁止で、バレたら停学だってハルが言ってた。私は一人で大慌て。
「トーコったらなーに言ってんだか!練習のし過ぎで幻を見たんだよ、きっと!」
「ホント~?隠れて男にでも会いに行ってたんじゃないの~?」
「人違いだって!」
「何慌ててんの~?」
「あっ私んち今日大変だから先に帰るねっじゃあねっ」
「え?大変って何がよ!」
 私は大急ぎで部室に入り、荷物とハルを持って校門を出た。
「ふぎゃー何よ美都。何が起こったの!」
 ズンズン歩いて五分くらいいったところでハルが我に返って騒ぎ出し、私は立ち止まった。よく見ると、ハルは上半身が制服で下半身はジャージ、片足ローファー、片足バッシュという何だか中途半端な姿になっていた。
「でもほら、ここまできちゃったしもうこのまま帰ろう」
「うん、帰ろっか」
 ハルはにぃって歯を出して笑った。ハルのこの顔、好き。そして私たちは駅へ向かって歩き出した。
「えー、それはまずいね。やばいね」
「でしょ?どうしたらいいかなあ」
 ハルが腕を組みながら空を見た。
「今日はやけに星がいっぱいあるねえ」
 ガク。
「何か考えてるのかと思ってたのにー」
「何にも考えてないよ~も~美都ったら私を哲学者みたいに~」
「言ってないって」
「それで、どうなのよ、ランゼンさんとは」
「えへへへへ~達郎、美都の仲なの」
「でも、アレ?藤コーって男女交際禁止じゃなかったっけ?」
 そんなの、そんなの聞いてないよ!
「店長、達郎君まだ来てないんですか?」
 いつもは私よりも先に店に出ている達郎君の姿が見当たらない。背の高い、神経質そうな横顔がいない。
「風邪をこじらせたらしいんだ。インフルエンザじゃないといいんだけどねえ」
 て、店長そんなのんきな!今年のインフルエンザはかなり強烈ってニュースで聞いたばっかりなのに。大丈夫かなあ。
「あのっ店長っ」
「な、何」
「これっていけないことなのでしょうか・・・達郎君の住所を教えて欲しいんですけどっ」
「ああいいよ、お見舞いでしょ?」
 店長はやけにあっさり承諾してくれ、メモ用紙にサラサラと書いてくれた。へえ、電車で二つ先かあ。
 夜の天蓋が空を覆い、星のワッペンがちらちら光る。一人で駅に向かいながら考えた。勝手に住所を店長から聞いてしまったことの良し悪しを。達郎君の病状を。このしめつけられるように寂しい気持ちを。
「今日も来てないんですか?」
 ため息に似た息を吐き出してしまった。インフルエンザって死ぬ人もいるって聞いたな。やっぱり昨日お見舞いに行けばよかったかも。最後の別れに立ち会えたかも・・・いやいや死ぬって決まったわけじゃないし!
「昨日、お見舞いにはいかなかったの」
「急におしかけるのもなんだなあって」
「ランゼン君はああ見えて結構寂しがり屋だからね、行ってあげるといいよ」
 おお、なんてキュートなウィンクをかましてくれるんだ店長!これではげてなかったらモテ男なんだろうなあ。でもはげててもいいなあ。
 あっという間にバイトが終わって、一人真っ黒な空間に取り残された。うう・・・やっぱり緊張する。迷惑だって言われたらそれまでだし、でも心配だから一目だけでも会いたいし。ああ・・・とうとう私の家と反対方向の達郎君の家行きの電車に乗ってしまった。私が行って治ったらいいのになー。こんな時ハルが一緒にいてくれたらなー。ハルーっ。いかん、これは私の問題だっ。おお・・・いつの間にか地図も見ずに達郎君の家の前についてる。表札も合ってるし。私って実は天才?しかしここからが問題だ。このっインターフォンをっこらっ私の右手!押してしまえ!
 ピ、ピンポーン
 待つこと五分。私は始終ドキドキ高鳴る胸をごまかすために、達郎君ちの大きな門や、つやつやの石がはめ込まれた壁や、暗闇に腕を広げる庭の小木をくるくる見まわしていた。
「ゴホッは、ゴホッはいゴホッ」
 達郎君のおじいちゃんかな?
「あ、あのう、小山と申しますがっ」
「あ?ゴホッみどが?ぢょっどまっでろ」
 このくぐもった声、達郎君の声なの?相当辛そう・・・やっぱり来ちゃまずかったかあ。
 門の鍵が自動的に外れ、木製の扉が開き、そして広い玄関に達郎君の姿。上下グレーのスエットに裸足でボサボサ頭。鳥の巣みたい。
「上がれ」
「お邪魔します」
 そろそろと靴を脱ぎ来客用のスリッパを履いたけど、家の中は真っ暗。人の気配はない。
「寝てた?起こしちゃってごめんなさい。ご両親は?」
「旅行」
「病院行ってないの?薬も飲んでないの?」
 達郎君は真っ赤な顔を左右に振った。ぬうー、なんて言いながら頭を押さえてる。
「キッチンどっち?」
「あっち」
「自分の部屋行って熱測りつつ寝てて!」
 達郎君が階段を上がる音を背中で聞いて、これまた広いキッチンの電気をつけた。流しがピカピカのまま、ってことは達郎君何も食べてないんだ。本当に死んじゃうよ。えーと、とにかく冷やさなくちゃ。台所から続く扉を開け、浴室で桶に水を張って達郎君の部屋らしきところへ向かった。
「熱は?」
「あ、忘れてた」
 達郎君の顔は今にも蒸気を噴出しそうだ。ぐったりとベッドの中に沈み込んでいる。冷たいタオルを額に当てると、ほっとしたように目を閉じた。
「体温計どこ?」
「薬箱の中」
「薬箱どこ?」
「電話の脇」
 赤い救急箱の中から体温計を探し、熱を測ってもらうと八度七分あった。
「ギャーッ」
「う、うるせえ頭にひ、響く」
「ごめんごめんだって~」
 達郎君死んじゃうぅ。一人であたふたあたふた部屋を歩いた。
「ご両親はいつ帰ってくるの?」
「明日」
「救急車呼ぶ?」
 達郎君は微かに首を横に振った。とにかく、と私はすぐに熱くなってしまうタオルを取り替えて、もう一度階下に下りた。
 冷蔵庫や炊飯器を勝手に開けて勝手におかゆを作った。床のフローリングはピカピカに磨いてあって、つるつる滑った。
「ハイ、おいしくないけどまずくはないから」
 達郎君はゆっくりと首を横に振った。
「食べたくないと思うけど、薬を飲まなきゃいけないから食べて」
 達郎君は熱で潤んだ目で私を見上げた。うーん、可愛い・・・ハッ、いかんいかん。
「食べないと即死だよ!バスケできなくなるよ!救急車でどこかへ運ばれちゃうよ!」
 達郎君はどこかってどこだよと言いながらも上半身を起こした。
「食べ終わったらこれ飲んでね」
 さっき救急箱の中から見つけておいた風邪薬の壜を開けて、お水と一緒に錠剤を渡した。
「薬、嫌い」
「好き嫌いの問題じゃないよ」
 私がぐいとコップを押し付け、錠剤を無理矢理手の中に押し込めると、達郎君はしぶしぶ飲んで、空のコップを私に渡した。
「何かして欲しいことある?」
 枕元に顔を近づけて、何かを思案しているような達郎君の顔を盗み見る。右手でぺたぺたになった髪の毛を触ってる。
 そうだ、ここ枕元だった。本屋じゃない。達郎君の家で、達郎君の部屋で、二人きりで。ちょっとだけ、よこしまな心が顔を出す。
「スポーツドリンク、飲みたい」
「オッケ」
 立ち上がって台所へ行き、巨大な真っ白い冷蔵庫を開け、ポカリスェットのボトルを見つけると、そこに青いストローを挿して部屋へ戻った。達郎君は音を立てて美味しそうに飲んでくれたから、冷蔵庫からもう一本ボトルを持ってきて達郎君の枕元に置いておいた。
「じゃあ私、帰るね。落ち着かないでしょ」
 達郎君は頬を赤くさせたまま、何も言わずに首を横に振った。気を使ってくれてるだけだよ、きっと、って冷静な自分がスプリンクラーのスイッチを入れる。
「もう少しだけ、」
 そばにいろ、って達郎君は確かに言った。私は立ち上がりかけた腰を下ろした。どうしよう。ドキドキが止まらない。何も言わずに部屋を出ればよかった?
「美都の手、冷たい?」
 ガサガサした声で達郎君は言った。
「私の手?うん、」
 私の手、いつも冷たいの。末端冷え性気味。それが嬉しかったことは初めてだ。達郎君が、ベッドから手だけを出してプラプラ振ってる。いい、のだろうか。そして私は、その熱い手をにぎった。電流みたいなのがビリビリきた。
このドキドキが伝染しないといいな。
「ほんと、つめてえな」
 そう言って達郎君は目を閉じた。本当は不謹慎だよね、こんな時に。お願い、私の手、震えないで!がちがちに緊張して下を向いていた。でも、十分くらいするとすうすうと寝息が聞こえ出した。やっと緊張から解放されてほっと一息。もう少しだけ、もう少しだけ達郎君の寝顔を見つめていたい。時が止まってしまえばいい。どうか、神様。
 ベッドサイドの液晶時計は終電が近いことを示していた。気持ちをなんとか断ち切って、丸めたタオルを変わりに達郎君の手に握らせて部屋を出た。
 外は凍えてしまいそうなくらい寒かった。奥の奥にまで寒気が流れ込んできて肌がぴりぴり痛かった。吐く息がパリパリと音を立てそうな真夜中。でも心の中は暑いくらい。初めて触れたドキドキが、今もここに残ってる。