「お前のファーストキスっていつだった?」
 いつものように屋上の給水塔の陰でタバコを吸いながら、二人は空を見上げていた。
「俺?入学してすぐ」
「嘘、マジ?どうして教えてくれなかったんだよ。誰?」
「去年転任しちゃった保健の先生」
「え」
 透也は、タバコを片手に持ったまま絶句した。
「あっちからしてきたんだよ」
「その先は?」
「その先って?」
「だーかーらっわかってんだろ?言えよ」
「妬ける?俺がヤッたから」
「やっぱヤッたんじゃねーかよ」
「成り行きだよ」
 杏里はそっけなく言った。
「お前のファーストキスは、俺だろ?」
「なッ」
 透也が顔を真っ赤にして、慌てて振った手から、タバコが灰色のコンクリートに落ちた。
「よかった?」
「よくねー。あんなのキスじゃない」
「じゃあどういうのがキスっていうんだよ」
 杏里は、ちょっとむっとしたような顔をして言った。
「わかんねーよ」
 透也が口ごもるのを見て杏里は言った。
「森中とのキスが本当のキスってやつ?」
「え、杏里見て、・・・」
 そこまで言って、透也は杏里の口車にまんまと乗せられてしまったことに気がついた。
「お前って悪魔だな」
「誘導尋問だよ」
 透也は上履きでタバコを踏み潰した。
「杏里ってさ、いつも俺から一歩引いて歩いているから距離感わかんないけど、やっぱり俺よりずっと前にいるんだな」
「逆だよ」
「ハ?」
「冗談」
「最近よくわかんないよ、杏里」
「わかられてたまるか」
 杏里は短くなったタバコを床ですりつぶした。最後の煙が低い空へ昇っていった。
「杏里って、不得意なものなんてないだろ。頭はいいし、スポーツできるし、口うまいし、女にもてるし、色々知ってるし」
「色々って?」
「色々だよ!」
「教えてやろうか」
「阿呆みたいなこと言ってんじゃねー」
 透也が顔を隠すようにそっぽを向いた。
午前中の雨はやみ、重たい雲が空に敷き詰められていた。息が、白く凍りついた。
「ったく杏里のタラシ、スケベ」
「随分な言いようだな。俺は欲望に忠実なだけだ」
「どーゆーこと」
「こーゆーこと」
 そう言って杏里は透也の手首を強くつかんで、自分の方に引き寄せ、強引に唇を押し付けた。驚いた透也が杏里を突き放すと、真っ赤になって怒った。
「何すんだよっお前は変態か!」
「お前だってエピキュリアンなんだよ」
「エピ・・・?」
 ほこりを払いながら杏里は立ち上がった。
「快楽主義者」
「俺が?」
「だって、したかったから森中にキスしたんだろ?」
 氷のように冷たい目で透也を見て、杏里は二本目のタバコに火をつけた。
「それとも何か理由があるのか?」
 何も言えず、透也は杏里をにらんだ。
「杏里の卑怯者」
「お前、蝶は嫌いなんじゃなかったっけ」
 透也は視線を杏里の足元に落とした。厚い雲の中を、飛行機が渡っていく音が聞こえた。
「嫌いだ。でも」
「でもなんだよ」
 透也が黙っていると、杏里は言った。
「鈴音を好きにならないって約束しろよ」
 タバコの、微かに苦い香り。
「どうして」
「どうしても」
 透也は黙った。杏里も黙った。少しの沈黙が落ちた。
「いいよ、約束する」
「破ったらお前をイヤって程苦しませてやるから覚悟しとけよ」
「そんなことできんの?」
「簡単だよ」
 杏里の瞳が冷たく光った。その時、誰かが屋上の扉を開ける音が聞こえた。杏里はすぐにタバコの火を壁に擦り付けて消したが、この場所が見つからないのはわかっていた。
「花の匂いにつられて来たか」
 杏里が、入ってきた人物を壁の影からのぞき見て言った。
「誰」
 透也も杏里に倣って、壁に体を寄せて覗き込むと、屋上の手すりにつかまって風に髪をなびかせている鈴音が見えた。透也は次第にイライラしてくる自分の感情を、学ランの襟をつかむことで抑えようとした。
二人が見ている前で、鈴音は手すりをつかむと、ひらりとそれを飛び越えた。声を出す暇もなかった。重い曇り空の下、冷たい風が吹き抜ける。
「あいつ、・・・」
「おい待て」
 杏里の腕が透也をつかもうとしたが、かけ出した透也を捕まえることはできなかった。
「透也!」
 透也は、鈴音が飛び越えた場所からグラウンドを覗き込んだ。
「何?」
 落ちたとばかり思って鈴音は、五十センチほど突き出たコンクリートの部分に座って、足をばたつかせていた。マントのように、髪の毛が舞い上がる。
「お前、・・・」
 気が動転して、透也は言うべき言葉が見つからない。
「だから言ったろ」
 あとから来た杏里が、呆れ顔で透也を見た。
「お前の方が飛び降りそうな顔してんな」
「だってこいつ、・・・」
「何よ」
 鈴音は、透也たちを見上げながら言った。
「何じゃねーよ」
 透也が鈴音に向かって叫んだ。
「危ないからあがれば?」
 杏里の言葉に、鈴音はむっとしたような顔をしたが、仕方なく手すりを飛び越した。
「これでいい?」
 そう言うと、目の前にいた透也の制服の襟をつかみ、顔をうずめた。
「な、!」
 突然のことに困惑した透也は、杏里に助けを求めるような視線を投げた。
「ここでいつもタバコ吸っているんだ」
 顔をあげた鈴音が、杏里見て意味深に笑った。そして透也を見た。
「私にキスした時もタバコの匂いがした」 
 襟から手を離すと、鈴音は言いながらスカートを払った。透也の顔がみるみる赤くなった。
「結構鈍感」
 その言葉を聞いて、透也は思い切り床を蹴った。鈴音が髪をかきあげる。微笑む顔は薔薇のようだ。透也は困惑した。鈴音は花なのか?蝶なのか?蝶に似た遊蝶花なのか?
「氷みたいだ、お前の目」
 透也が鈴音を見て言う。何もかもを見透かしてしまう、少年特有のまっさらな目に見つめられても、鈴音の本当の心は見えないままだ。何もかもを知っているような、初めから何も知らないような不思議な顔つきで、鈴音は透也を見つめた。
風が、強い。
「透也、五時間目が始まる。行くぞ」
 三人は、鳴り終わろうとするチャイムを聞いた。
「お前の好きな体育だぞ。今日はお得意の走り高跳びだろ」
「そうだっけ」
「マラソン大会終わったから、次に入るんだろ」
「っつーか、お前マラソン早すぎ。ちょっとは加減しろよ」
「お前が、スタートする時に本気出せって言ったんだろ?」
「うるせーそんなの冗談に決まってるだろ。わかんねーのかよ」
「わかるか阿呆」
「阿呆って言うなよ、ムカツク!」
「いいから、ホラ」
 杏里に背中を押され、しぶしぶ透也が屋上の出口へ向かう。
「お前は?」
 杏里が、興味なさそうに鈴音の方を振り返って言った。
「わかんない」
「あ、そう」
「杏里、早くしろよ!」
「今行く」
 杏里は答えて、きびすを返した。
蝶は、静かに羽ばたき始めた。