放課後、いつものように透也はグラウンドに向かった。杏里は眼科に行くとか言って帰った。多分嘘だろう。頭がよく見えるとか言ってダテメガネをかけているようなヤツだ。基本的にふざけている。
 グラウンドへ向かう途中に通る、この時間はいつも人気のない旧校舎から、珍しく話し声がした。それは旧校舎と新校舎をつなぐ外の廊下から聞こえてくる。何気なくそこを通った透也だったが、その声の主が、鈴音と社会の教師だと気づいた。一旦は通り過ぎた透也だったが、気になる心を抑えきれず、近くの壁際に隠れて二人の会話を盗み聞いた。
「昨日も来なかったな。何か理由があってのことなんだろう?」
「忘れていました」
「今まで一回も参加していないのはお前くらいだぞ?一応入部しているんだから、少しは活動に参加しなさい」
 沈黙が続いた。首にあたるごつごつした壁の冷たい感触を気にしながら、透也は鈴音が何部だったのかを思い出そうとした。
「今日、これから出なさい。温室の植物に水をやって、枯れた葉を取るだけでいいから。わかったか?」
 仕方なく鈴音は同意したようだ。新校舎に教師が入っていくのを目で追いながら、鈴音は園芸部だったことを透也は知った。思い出せないのではなく、知らなかったのだ。誰かが、ほとんど活動がなくて楽だと言っていたことは思い出せた。
 透也は自分の方へ歩いてくる足音を聞き、慌てて死角になる旧校舎の陰に隠れた。鈴音は温室に向かったようだ。透也も、何も考えずに温室へ向かった。
 体育館と旧校舎に挟まれた温室は総ガラス張りだ。沈み行く夕日の弱い光を受けて、金色に浮かんで見える。温室の隣にある桜の巨木が、枯れているかのようにひっそりと立っている。その木に、たくさんの蕾が春を待っていることを、透也はまだ知らない。
時がたつにつれて温度が下がっていくのを肌で感じた。白い息を自分の手にかける。
鈴音が葉切バサミを持って温室に入って行くのが見えた。自分以外の誰かが温室の扉を閉める音で、鈴音は透也の方を振り返った。しかし別段驚く様子もなく、透也に背を向けると枯れた葉を切り始めた。教室三つ分もある広い温室には、他に人の気配はなかった。
「楽しい?」
 透也が皮肉をこめて言うと、
「楽しい」
 と、鈴音はそっけなく答えた。しゃがむとその髪の毛は、地面についてしまうほど長い。
 ぱちんぱちんという葉切りバサミの音が、ガラスに小さく振動した。
「何ていう花」
 透也が、鈴音の切る花の鉢を指差して言った。
「黄梅。でも、梅じゃない」
「どうして」
「形が似ているから。別名迎春花。春を迎える花」
 黒い幹に、小さな薄黄色の花がたくさん咲いている。
「香りは少しもない」
 鈴音が、その一つの花に顔を近づけて言った。
「お前さ、誰ともしゃべらなくて寂しくないの」
「私が言葉を話さなくても、誰かが話しているから気にならない」
「どういうことだよ」
 透也が聞き返しても、鈴音はそれ以上答えなかった。
「話すのが面倒くさいってことか?」
 透也は徐々にいらだっていくのを感じた。こんなにも思い通りにならないことは、初めてだと思った。反対に鈴音は、透也のことは気にもしない様子で、次々に枯れた葉を切り落としていく。
「その花は」
 学ランが汚れるのに少しもかまわず、透也は地べたに座り込んだ。
「クロッカス。陽の当たらない所では育たない。あなたみたいな花」
「どういう意味だよ」
「でも仕方ない。陰がある所にこの花は生まれないから」
 そう言って鈴音は紫色の花に触れた。透也は、小学生の頃に理科の授業でこの花を育てたこと、その球根から伸びる長い根に驚いたことを思い出した。水を吸い、太陽を浴びる健やかな花。
 そうしているうちにも陽は傾き、温度は下がっていく。
「これ、ヒヤシンスだろう」
 透也が言うと、鈴音が振り向いた。
「いい香りでしょう」
 色とりどりの花は、何かを拒むように下を向いている。
「今日はよくしゃべるな」
 どうしてこんなに刺のある言い方をしてしまうのだろうと、透也はひそかに自分に問いかけた。馬鹿にされるのは杏里で慣れている。普通の会話をしているのに、こんなにも相手を憎らしく思ったことはない。
「お前がこんなにしゃべるの、初めて聞いた」
「だってあなたと話す理由なんてないもの」
 座ったまま見上げた、鈴音の長いまつげが気になった。そのくらい、二人は近くにいた。
 鈴音の肌は白い。細い首も、繊細な指先も。なのに透也は黒いアゲハ蝶を思った。ただそこに存在するだけで目を奪われる、漆黒の羽。透也の中を、綺麗なものと残酷なものとが交互に流れていった。
「外に咲いている、桜じゃない方の木は何ていう木?赤い花が咲いているやつ」
「紅梅。紅い梅」
「梅か」
 透也は室内から、外の小さな木を振り返った。もうほとんど、その木が見えないほどの闇だ。温室内は、豆電球が優しい橙に室内を染めている。
「とても紅い。でも香りもほとんどないし実も取れない。白梅の方が役に立つのに、人間は紅が好き。紅梅は、木の髄まで紅いの。人の血液みたいに」
「紅すぎて俺は無気味だと思うけど」
 透也は、乾いた茶色い土を触りながら言った。夜が二人をしきりに追い立てる声がするのに、透也はどうしても立ち上がれないでいた。
「水仙の花言葉、知っている?」
「知るわけないだろう」
 透也は鈴音をにらんだ。
「あなたの約束を守りなさい」
 その抑揚のない声は、透也に注意を促すように響いた。
「花が好きなんだな」
 鈴音は静かに微笑した。
「あなたなんかよりずっと好き」
 試されているようなその言葉に、心底ぞっとした。透也はそれを振り切るように立ち上がり、そばにあった大きな空の植木鉢を思い切り蹴った。ガチャン、と瀬戸物の割れる鈍い音が響き渡った。
「花にまみれて窒息しちまえ」
 低く叫ぶと、透也は温室を出た。扉を開けると、その温度差に全身が震えた。
ムカムカして気分が悪い。ああ、何もかもぶち壊してしまいたい。あいつも学校もこの星も俺自身も。何もかも粉々に砕け散って、消えてしまえばいい。あいつが欲しがる花なんか、この世界から一本も残らず燃やされてしまえばいい。温室を出て走りながら透也は思った。 
どうしてこんなことを思いながら泣きたくなるのかわからなかった。悔しいんじゃない。違う、そんなんじゃない。俺は、あいつを捕まえられない蜘蛛だ。狭い自分のテリトリーの中でもがいているだけなのか。
それでも蝶は舞う。そのすぐ後ろで、蜘蛛が待っているのも知らずに。

「出席番号十六番中谷透也、川の流れのように、歌いまーす」
「おーい、いつの歌だよそれ」
 昼休み、教卓をステージに男子が集まって騒ぎ出す。中心はいつも透也だ。
「誰の歌~?」
 女子も、遠巻きに笑いながら野次を飛ばす。
「何言ってんだよ、美空ひばりだよ!知らねーの?泣けるぜ~?」
「オヤジかよお前」
 大きな笑いが起こり、透也の一挙一動に、クラスメイト全員が引き込まれていく。
「早く歌えよ!」
「アンコール~」
「まだ歌ってないっつうの!」
 必要もないのにギターをかき鳴らす真似をし、声を張り上げる。男子の大半は学ランを脱いで、まだ二月だというのにYシャツ一枚になっている。
「コラ!また中谷か!教卓に乗るなっつったろ!」
 上背のある数学担当のクラス担任が、大声で怒鳴りながら教室に入って来た。
「逃げろ!つかまったらまたマラソンさせられるぞ!」
 透也の声で、その場にいた男子全員が校庭へと駆け出す。
「少しは次の時間の予習でもしろ!」
 そんな教師の声は、彼らの耳には届かない。
「外で野球しようぜ!」
 次の遊びで頭がいっぱいだ。透也のおかげで、このクラスは他のクラスよりずっとまとまりがいい。困ったなあという顔をしつつ、その後姿を見る、担任の表情は柔らかい。
透也には、否応なく人を惹きつけてしまう何かがあった。透也の周りは、いつも人が集まって来る。野性的なまでのその感性を、透也は誰に教わるわけでもなく身につけていた。
人は、自分にないものを持つものに憧れる。透也は愛されるべき人間だと、誰もが口に出さなくても知っていた。雨の日も、雪の日も、透也の上にだけは光が降り注いでいると。 
花は、揺れる。触れたらその毒に殺されてしまうことなんて、誰も知らない。

春の光に似た柔らかい日差しが、教室中に降り注いでいた。
ちょうど心地良い温度なのか、五時間目の教室は大半の生徒が眠りに落ちている。実験室ではなく、クラスでの理科の授業だからなおさらだ。透也も、実験なら楽しいのにと思いつつ、うつらうつらしていた。
何の気なしに透也の二つ左隣の杏里を見ると、透也の予想に反したところを見つめていた。鈴音を見ていた。どんな目で鈴音を見ているのか、透也の席からは見えない。透也の席は廊下側の一番後ろだ。鈴音の席の右直線状にある。
鈴音はいつものように窓の外を見ていて、その表情をうかがい知ることはできない。
透也は不意に、わけのわからない焦りと不安を覚えた。春近くのこの空気とは対照的に、冷たい氷のような「予感」が、透也の指先に落ちた。
その時、カタリ、と窓が鳴った。透也の席からは聞こえるはずがない、微かな音だ。クラスの人間は気づいているのだろうか?透也はとっさに鈴音の方を見た。
黒い大きなアゲハ蝶が、鈴音の周りを飛んでいる。一瞬、自分が夢を見ているのではないかと思った。杏里は気づいているのかいないのか、その姿勢は保たれたままだ。
ひらひらと、幻想のように蝶が舞う。銀の燐粉を落としながら、はらはらと飛び廻る。蝶が見えているのは、自分だけなのではないかと透也は思った。こんな時期にアゲハ蝶がいるはずはない。
「お、でかいアゲハ蝶だな」
 突然教師が言い、眠りに落ちていたクラスが目を覚まし始めた。そして、鈴音の周りを舞うアゲハ蝶に目を奪われていく。見えるのか、と透也は安心したようながっかりしたような複雑な思いがした。
「アゲハ蝶は夏の虫のはずなんだけどな。あんまり暖かいから、初夏と間違えて迷い出てきたのかもしれないね」
 教師は鈴音に話し掛けたが、鈴音は虚ろに窓の外を見つめたままだ。教師は小さくため息をつくと、次はクラス全体に向けて話し始めた。
「今までの授業とはそれるが、冬、蝶はどうしていると思う?」
 まだ寝ぼけているのか、クラスは少しざわついただけだ。
「蝶は熊なんかと同じで、冬になると体温が下がってしまう。だから飛べなくなるんだ。そうなると、木のほら穴などで冬眠をする。それを凍蝶という。アゲハの種類は、さなぎのまま冬を越す。だからアゲハ蝶は、今の時期はさすがに早すぎるけどね。タテハ類は、正月を過ぎた頃に見た人もいるんじゃないか?黄や赤のぎざぎざのついた、アゲハ蝶よりも少し小さい蝶だ。俳句なんかで、初蝶って言っているのは種類が決まっていて、黄蝶のことなんだぞ」
 静かに、若い理科教師は言った。クラスはその声を子守唄代わりに、また眠りに入っていく。
「凍蝶」
 杏里が、前を向いたまま口だけを動かしてつぶやいた。
蝶はもう目覚めてしまったのだろうか。羽を震わせ、少し早い春に気づいてしまったのだろうか。