今日、私は決めた。
自分の気持ちに向き合うということを。
人の噂じゃなく、言われた内容でもなく、人の視線じゃなく、その理由でもなく、ただその時この時に感じた気持ちとだけ、正面きって向き合おうと決めたのだ。
人を好きになるならまず自分を好きにならなきゃだとか、人を愛するためにはまず自分を愛することよなんて、みんな簡単に言うけれど、自信を持って自分を大切にしてる人って少ないんじゃないかと、私は思う。

この世の中にはややこしい常識や曖昧な暗黙の了解や特定の場所だけのルールがはびこっていて、それにあたかも順応しているかのように見せながら生きるのは、とても難しいからだ。
そこであたふたしないように笑顔を崩さないように生活することは、とても疲れることで、時には我慢を通り越して自分を押し殺さなければならないから。
自分が何者で、なんのために生きているのか、それを模索しながら自分の心と身体を大切にするのは実に勇気のいることだからだ。
けれど、喉が渇けば水を飲むし、熱が出れば横になる、そんなふうに人間は知らずして自分を大事に守っている。

自己防衛本能じゃなく、私は私を好きになれる日が来るだろうか。
負い目と引け目ばかりの世界から抜け出せる日は来るだろうか。
どんなに個性が特異であっても、これこそ私だと胸を張れる日は来るだろうか。
自分のしている小さなことが、どこかで誰かの役に立っていると思える日は来るだろうか。
例え誰の役に立っていなくても、純粋に今笑顔でいられることをみんなのおかげだからと喜べる日は来るだろうか。

溢れてコロコロと入れ替わる情報に惑わされることなく、無機質で不安定な連絡ツールに依存することなく、超現実的な出会いを大切にしたい。
そして忙しない社会に流れるどんなニュースよりも複雑な人の気持ちに、敏感でありたいのだ。
1年、1ヶ月、1週間、1日、そのうちにやって終わらせなければならないことは山ほどある。
けれど時間は躊躇なく進み、手は2本しかなく、心は1つしかない。
だからこそ優先順位がとても重要だ。
自分が今見つめるべきものはなんなのか、今共にいるべき人は誰なのか。
誰の言葉を聞き入れ、誰のセリフは聞き流すのか。
どこまで間に受け、どこからシャットダウンするのか。
先述したこと、自分を好いて愛してからでなければ人を愛することはできない。
それは納得には至らないが、自分を守ってこそ人を守ることができると、そう感じる。

強いて結論づけるなら、人生に近道はないと私は思う。
皆それぞれ、荷や葛藤があって、それを測れるものさしも、それを比べる天秤もないのだ。
そして私の人生にもまた、急勾配の上り坂や沼や行き止まり、さらには迷路や長すぎるほどの階段、落とし穴や蟻地獄まである。
けれど、その先々で会釈を交わす相手がいたり、手を取り合う同士がいたり、外から優しく声をかけてくれる人がいれば、ほんの少し進むことができる。

晴天だからといってずっと日照りはつらいし、恵の雨だからといって40日40夜振り続けても途方に暮れる。
そんなものだろう。
だから私は、私の気持ちを否定したくない。
笑える時は嬉しいなぁ、と。
泣きたい時は悲しいな、と。
怒れる時は腹が立った、と。
切ない時は淋しいなぁ、と。
どうにもならない夜があることも。
私は私を肯定してあげたい。
命短し悩めよ乙女。
苦しくてもがく今を、生きて、生きて、生きろ。