電車は勝どき駅を過ぎ、新宿の方向へと速度を速めていく。雑多な人々を乗せ、夜の中を走るこの箱は、ビル群の明かりを背景にまるで空を飛んでいるようでもあった。

 重たいショルダーバッグを肩に食い込ませ、電車のドアに寄りかかりながら、沙耶子は過ぎてゆくオフィス街の光を眺めていた。

 東京に働く人は多い。この電車に乗っている時や、道をただ歩く時さえ、心を閉じて、感覚を麻痺させておかないといけないくらいに。

 だから、街を歩いても知った人にはきっと会わないのだろう。いや、会わないのではなく、気づくことが不可能なのだ。なぜなら、心を閉じるということは、周囲のすべての人間を、顔のない人々の群れに変えてしまうということだから。

 沙耶子は四十路を越えてなお、独り身だった。そして、それは遠い日に彼女の感じた予感のままだった。

 結婚、しないんですか?

 誰かが沙耶子にそう聞くたびに、彼女は驚いたような顔をして、それから緩く首を振った。

 それはまるでこの世の中に「結婚」という言葉があることをほんのついさっきまで――結婚というその言葉を聞くまで――忘れてしまっているかのようだった。

 それほどひっそりと彼女は生きていた。それは家庭のある人の思うよりも自然で、安定した生き方に思えた。だから、沙耶子を知る人たちはそっと彼女の知らない陰でこう話すのだった。

 きっと、彼女は結婚しないだけで――もしくは何かの事情で出来ないだけで、幸せを分かち合えるいい男性《ひと》はいるのだ、と。

 そんな人の噂は通り雨のように、何度か過ぎては消えていく。

 他人《ひと》にはわからないのだ。

 沙耶子は通り雨を感じるたび、そんな思いを強くした。
 私を支える強いものと、それからその、確かさを。

 沙耶子は信じていた。いや、一度は嵐の中で引きちぎった思いだけれど、それはまだ十分に信じられる思いとしてそこにあった。

 けれど沙耶子はそれを誰にも話したことはない。なぜなら、世の女性たちの言う愛の証――それは銀の指輪だったり、役所に届けるぺら紙だったりする――を沙耶子は持たず、もしそれが愛のすべてならば、彼女の信じているものはまったく目に見えぬ、別のものだったからだ。

 金切り声を上げながら電車は彼女の降車駅に止まり、沙耶子はたくさんの人々に紛れて鼠色のホームを歩いた。ふと、顔を上げると冴え冴えとした丸い月が、まるで夜空に開いた穴のように、夜の向こう側からの光を洩らしていた。

 僕が夜空に月を探すのは、どこかで月を見上げている君を知っているからでしょうか。

 擦り切れたテープのように古い言葉が、沙耶子の胸の中にじんわりと溶ける。

 甘く、切なく、透明な。

 ばったり出くわした旧友のように、寂しさが沙耶子を振り向き、軽く笑った。こうして思い出の封は何度も切られて、そしていつものように沙耶子を待っている。

 彼女の住むマンションは、すぐそこだった。

 こんな夜には、確かなものに触れることを許してほしい。

 沙耶子は冷えた夜気に息をつき、細く繋がった糸を辿った。