万延元年の3月3日の朝。
江戸城のひな祭りに出席するため、私は薄桜色の着物に着替えていた。
「わしは先に登城している。そなたは、のんびりまいれ」
父は大老の井伊直弼。四十四歳。
彦根の赤鬼だの、人でなしだの、評判はろくなものじゃないけど
、私には優しい父だ。
「お父上さまらしくもないこと。遅参などいたしては、せっかくお招きいただいた将軍様に無礼でございましょう」
家茂様は父が強く推して将軍職についたので、父には恩義を感じていらっしゃった。
だから、御台所の娘とはいえ、面識のない私にもお誘いがあったのだ。
「まあ、そうだな」
裃に長袴をつけた父は、私の頭に大きな手を乗せた。
「すみれ」
「はい」
「いくつに、相成った?」
「十五になりましてございます」
「美しくなった。どこの姫にも、見劣りせぬ」
「お父上さまったら」
「そなたならば、いかなる試練も乗り越えられよう。父は安堵したぞ」
この時、私は気づくべきだったかもしれない。
父の様子がおかしかったことに。
すでに、死を覚悟していたことに。
江戸城のひな祭りに出席するため、私は薄桜色の着物に着替えていた。
「わしは先に登城している。そなたは、のんびりまいれ」
父は大老の井伊直弼。四十四歳。
彦根の赤鬼だの、人でなしだの、評判はろくなものじゃないけど
、私には優しい父だ。
「お父上さまらしくもないこと。遅参などいたしては、せっかくお招きいただいた将軍様に無礼でございましょう」
家茂様は父が強く推して将軍職についたので、父には恩義を感じていらっしゃった。
だから、御台所の娘とはいえ、面識のない私にもお誘いがあったのだ。
「まあ、そうだな」
裃に長袴をつけた父は、私の頭に大きな手を乗せた。
「すみれ」
「はい」
「いくつに、相成った?」
「十五になりましてございます」
「美しくなった。どこの姫にも、見劣りせぬ」
「お父上さまったら」
「そなたならば、いかなる試練も乗り越えられよう。父は安堵したぞ」
この時、私は気づくべきだったかもしれない。
父の様子がおかしかったことに。
すでに、死を覚悟していたことに。