オレにも理想ってものがあってだな。
朝、包丁のトントントンって音で目が覚めて、味噌汁の良いにおいがして、エプロン姿の奥さんが「秀文ー、起きてー、朝ごはんできたよー」と起こしにくる。
そんな絵に描いたような家庭の図が、すごく憧れで……。
「秀文」
そう、こうやって。
「ヒデー」
オレの身体を、小さくて柔らかい手で揺さぶって。
「秀文ってば」
そして優しく、起きないとチュウしちゃうぞ、とか言われたり。
「起きないと、吉野くんと浮気しちゃうぞ」
「え、ええっ?」
飛び起きた。飛び起きざるを得ない言葉を言われた。
「はい、おはよう」
「お、おはようございます……」
光里はにっと笑って、オレの布団をはぎ取る。
理想と現実は違うんだと、毎日のように思う。オレの理想はずっと前に伝えてあるのだから、たまには優しく起こしてくれればいいのに。
いつか天邪鬼な彼女の耳元で、腰がくだけるような台詞を吐いてみたい。
でもいつも一枚上手な彼女は、それをうまくかわしてにっと笑うんだろうな。
ていうかオレの幼馴染み――吉野との浮気だけは色んな意味でやめてほしい。幼稚園でスモックを着ていた頃から知ってるやつの恋愛事情なんて知りたくはない。光里がオレじゃない誰かと愛し合うところも想像したくない。
光里にはオレだけを見ていてほしい。
「あ、なめこ」
「ん、スーパーで目についたから。たまにはね」
テーブルの上に置かれた、ふたり分の朝ごはん。
炊き立てのごはんに焼き鮭、だし巻き卵にほうれん草のおひたしに納豆。そしてなめこ汁、と。今日は日本の朝ごはんらしいメニューだ。
「いただきます」
「はい、どうぞ」
一口、なめこ汁をすする。口の中に広がったのは、味噌と出汁となめこの味。今日も良いバランス。相変わらずの料理上手だ。
「うまい」
言うと光里はにっこり笑って、ようやく席につく。
毎朝一緒にごはんを食べるというのがオレたちの日課で、同棲を始めて半年、一度もそれを欠かしたことはない。
そりゃあこれから仕事の都合や何やらで、一緒に食べられない日が来るかもしれないけれど。できる限り一緒に、朝の時間を過ごせたらなって思う。
同棲を始めるまで、朝は出勤時間ぎりぎりまで寝て、飯も食わずに慌ただしく出勤していた。それが今じゃ一変。余裕を持って起きて、おいしい朝ごはんを食べて、食後のお茶も飲んで、ちゃんと目が覚めた状態で仕事を始められるようになった。それもこれも、光里が毎朝おいしいごはんを作ってオレを起こしてくれるからなんだけれど。光里さまさまだ。
「あ、秀文」
「んー?」
「わたし今日同級会って覚えてる?」
「あれ、今日だっけか」
「うん、そう。だからもしかしたら帰り遅くなるかも」
「了解」
「だからもしかしたら明日の朝ごはんは作れないかも」
「りょうか、ええっ?」
一緒に食べられない日が来るかもしれない、とは思っていたけれど、まさか半年続けた日課が、こんなにあっけなく終わってしまうとは。
ああ、だから急に吉野の名前なんて出てきたわけね。オレと吉野は幼馴染みで、昔一緒にバンドを組んでいたりもしたから、今でもたまに会ったりするけれど、光里と吉野は高校の同級生ってだけ。そんな光里の口から吉野の名前が出るなんておかしいと思ったんだ。
光里が吉野と浮気することは絶対にないと言い切れるが、明日の朝一緒にいられないとなると問題だ。オレができる料理といえば目玉焼きくらい。仕方ない、明日の朝は久しぶりに目玉焼き丼か……。
ずっと光里の完璧な料理を食べ続けてきたおかげで、昔狂ったように毎日食べていた目玉焼き丼が、急に質素で虚しいメニューに思えてきた。