ある寒い冬の日。あたしはたった一言を切り出せなくて、ただじっと奏汰(かなた)兄(にい)の背中を見ていた。年上の幼馴染み、奏汰兄のベッドに腰掛けて、じっと固まって、もう三十分くらいずっとそうしている。あたしから見えるのは、洗いざらしのダンガリーシャツにざっくりしたセーター、ネイビーのジーンズの後ろ姿。暗めの茶髪の頭だけ。

 奏汰兄はといえば、窓に向き合うデスクに座ってずっとあたしに背を向けている。大学三回生の奏汰兄は外交官を目指していて、来年度の公務員試験の勉強の真っ最中だ。


 なにも言えずにもじもじしているあたしにしびれを切らしたのか、奏汰兄がチラとも後ろを見ずに言う。

「なんの用」

 冷たいんだね。あたし、今、ものすごく必死で勇気をかき集めてるのに。

「奏汰兄、あたしね」
「うん」

 奏汰兄の生返事。

「あたしね、フランスに行くことにした」

 その一言を言うために、どれだけの勇気がいったか。でも、奏汰兄の返事はつれない。「ふーん」の一言。

 あたしは奏汰兄の枕を取って、背中に投げつけた。

「ってーな」

 ようやく振り返った奏汰兄。でも、ものすごく不機嫌な顔。

「あたし、フランスに行くんだよ!?」

 あたしは立ち上がって両手をギュッと握り、叫ぶように言った。奏汰兄は長めの前髪をかき上げてあたしを見た。