【九月】


四月から通い続けていた市立のK中学から
お父さんの仕事の関係で夏休みの間に引っ越し。

編集試験を受けて、二学期から通うようになったのは
藤宮学院中等部。


二学期が始まって二週間。

最初はK中学との差から戸惑ってばかりいた学校生活も
ようやく馴染めそうな頃、いつものように学校から帰宅して
私は誰も居ない自宅マンションのドアを開けた。


「ただいまぁー」


台所に直行して冷蔵庫から取り出したジュースを
コップ一杯飲んだ後、自室のエレクトーンの電源をON。


ヘッドホンを繋げて、
後は無心に自分の中の世界へとのめり込んでいく。


ヘッドホンから伝わる次々と変わっていく音色。


ストリングスの音色から、どんどんと深く広がっていく世界感は
やがて雄大な宇宙へと広がっていく。


私の両手の指先が紡ぎ出すのは深みのある壮大なメロディー。


右足のペダルのスイッチを順番に蹴りながら音を切り替え、
左足では足の鍵盤を抑えていく。


ふと誰かに肩を叩かれた気がして慌てて現実に引き戻されると、
そこにはパートから帰って来たお母さんが
「奏音、早くしないと遅刻するわよ」
っとおやつのドーナツを片手に姿を見せた。



ヘッドセットを耳から外してリズムボタンをオフにすると、
ゆっくりとお母さんと向き合う。


「お帰り。
 またやっちゃった。

 エレクトーンにのめり込んでると時間忘れちゃうみたい」

「そうねー。奏音がエレクトーンを始めたいって言った時は
 お母さん心配だったけどこんなに夢中になるなんてね。
 あの時の『ふみやくん』の存在は大きいわね」

「ちゃんと長続きするって、
 続けるってお母さんに約束したでしょ。

 だから高いエレクトーン買って貰ったんだもん。
 ちゃんと無駄にしないように頑張るって」

「はいはいっ。
 王子様の威力は絶大ね。

 エレクトーンだけじゃなくて、学校の勉強もこのくらい
 集中してくれたらお母さんは嬉しいんだけど」


そんなことを言いながら、
お母さんは譜面台の楽譜を覗き見る。


「お母さん、一言余計だから。
 今は学校の勉強よりもエレクトーンだもん。
 私」


「はいはいっ。
 
 ほらっ、お父さんの転勤で教室まで
 新しいところに変わってごめんね。
 
 秋弦君と一緒に通ってた隣町のあの教室に通わせてあげられたら良かったんだけど
 時間的に送迎してあげられないし、電車で教室通いって言うのも心配だったから」

「って、お母さん、どうして秋弦の名前が出てくるのよ。
 秋弦はただの幼馴染だからね。

 それに気にしないで。
 お父さんの仕事は大切だもん仕方ないよ。

 私、今日から通える新しいお教室にどんな人がいるのか、
 凄く楽しみだから。

 お母さん、教室見つけてくれて有難うね」



そんな会話をしながら私は演奏に浸かっていたエレクトーンの楽譜と
フロッピーを鞄の中に詰め込む。


「そうね。

 ほらっ、教室まで送っていくから
 早くドーナツ食べて準備しなさい」

「はーい」



私の部屋から出て行ったお母さんを見送ると、
エレクトーンの椅子からゆっくりと降りて本体の電源を落として蓋を静かに閉じた。

エレクトーンの隣のカラーボックスには、
今まで練習して来た沢山の楽譜。

そしてその隣には、
もうずいぶんと古くなった年代物のビデオテープ。

このビデオテープの中の宝物が
私がエレクトーンを始めたきっかけだから。





私、松峰奏音【まつみね かのん】。
藤宮学院中等部一年。


大好きなエレクトーン歴はもうすぐ六年目に突入する。



小学校一年生の夏休み。


朝のTV番組に出演していた三つ年上の男の子。


はすいふみや君【当時小学校三年生】の奏でる
エレクトーンの演奏が凄くて憧れて、勢いで音楽教室の門を叩いた。


それまでは、音楽なんて全く興味なかった私が
いきなり「エレクトーンやる」なんて爆弾発言したいから
お父さんもお母さんも大変だったみたい。


何せ、我が家は音楽とは無縁の家だしね。


奏音の名前が、奏でる音だから音楽に縁があってもよさそうなんだけど
両親ともに楽器演奏とは無縁。


ただお父さんとお母さんの出会いが、
大好きなアーティストの曲だったらしくて
その大好きな曲みたいに、家族の音を奏でられたらいいわねーなんて思いで
名付けられたらしい。


まっ、そんな大層な名前を背負った私が
不純な動機で始めたエレクトーン。


だけどエレクトーンを習うには、やっぱり楽器の購入とか、
大変な負担をお父さんたちにもお願いしないと行けなくて
両親にいっぱいおねだりをして習い始めたエレクトーン。


だからこそ、ちゃんと私は自分の意志で、
エレクトーンを続けたいって思うんだ。


まだあの頃にエレクトーンの楽しさを教えてくれた
王子様には程遠い。


自分のオリジナル曲も作れないけど足も手も、
もっともっと動くようになりたいし音の深みも構成も足りないものだらけだけど
ちゃんと追いかけていきたいって、心から思ってるから。



何度も何度も見た宝物のビデオテープにゆっくりと手を添えて
心の中で「行ってきます」と声を紡ぐ。




『行ってきます。私の王子様』




素早く着替えを済ませてレッスン鞄を手にすると、
私は自分の部屋を飛び出した。