駅から全力疾走をし、何とか会社に間に合ったさと子。もう仕事が出来ないのではないかというくらいに疲れ果てている。ぜーはー言いながら自分の席に座り、一息つく。
「間に合ったー昨日の件もあったから、達海にお礼言いたかったけど、今日は会えないかなぁ」
「話は神より聞いています。そのことならお任せを」
「お任せ?」
「ええ。今回は、この普通の人間には見えない身を利用するのです。本日、私はさと子さんではなく、達海さんの傍におります。そして、彼が休憩に入りそうな時や、帰り支度をする時、貴方様の元へ急いで伝えに来ます。貴方様はその機会を狙って、礼を言う。いかがでしょうか?」
 男性の妙案に、思わず手を叩くさと子。男性は控え目に微笑んだ後、「では」とすぐさまいなくなってしまった。
 見た時はどんな曲者かと思ったが、とても頭の切れた人だ。それも、言ったらすぐ実行。まるで執事みたいな真面目な人だなぁ。ただ、あの変わった雰囲気と、必要最低限の言葉づかい。さと子は、少しミステリアスな彼が気になった。

 今、さと子はパソコンに文章を打ち込み、その文章に間違いが無いかを確認している最中。1つ2つと変換ミスを見つけ出すと、それを打ち直してもう一度見直した。うん、間違いない。データを保存し、椅子ごと後ろに下がり、さと子は両手を上げて伸びをした。
「お疲れ様です」
「貴方が来たってことは……」
「ええ、お迎えにあがりました」
 男性は手を伸ばし、さと子も自然とその手を取った。そのまま立ち上がり、歩きだしてから気づく。普通に手を握ってしまっていることに。
「いいですよ手まで繋がなくても。場所はわかってますから」
「おや。これは失礼致しました」
 男性は手を離し、一歩下がってさと子と並んで歩きだす。
「そう言えば、貴方のあだ名、此方では有名なのです。是非、僕にも素敵なあだ名を付けてやって下さい」
「そんな特別なあだ名じゃないのに、あれが有名なの?」
「それくらいしか話題が無いってことかもしれませんね。ですが、今はほとんど貴方のことが話題に上がっていますよ」
「へぇー」
 さと子は立ち止り、顎に手を添えて考え出す。この男性には、如何にもって呼び方がある気がするのだ。この、掴めない感じと、レディーファーストを自然としてくれる紳士さは……。
「カリー伯爵!」
 つっかえた物が出てきた喜びで、思わず指をさして言ってしまった。急いで手を下げ、「どうでしょう?」と笑って誤魔化した。
「有難う御座います。まさかカレーをカリーと言われるとは、意外でした」
 伯爵の方は気にならないのかなと思いつつ、どこか嬉しそうなカリー伯爵に、さと子も満足げだ。必死に考えただけはある。
「でも、何気なく付けてたあだ名なのに、何だかハードル上がっちゃうなぁ」
「ああそれは、話題と入っても、変わったのを付けてほしいとかではなく、単純に、特別な呼び方をされたいってだけですので。今まで、僕達はダイエットをなされている方に、あだ名など付けてもらったことはないので、新鮮なのです」
「そうなんだ。あだ名付けた方が親近感湧くのにねー」
「そうですね」
 カリー伯爵はそそくさとエレベーターの前まで行くと、エレベーターのボタンを押してさと子を待つ。さと子エレベーターの前に着くと、さと子の手を掴んで自分の隣へと移動させた。扉が開くと、たくさんの人がエレベーターの中から出ていく。成程、エレベーターに人がいた時の場合を想定して私を移動させたのか。さと子は感心した。
「行きましょう」
 2人はエレベーターに乗ると、達海のいる下の階へと移動した。

 下の階に着くと、偶然にも少し歩いた先でばったりと達海に遭遇した。
「達海、お仕事お疲れ!」
「ああ。お前も休憩か?」
「うんそうなの。それはそうと、昨日は有難うね。おひたし美味しかったから、家帰ってからたくさん作ったんだ」
「ふぅん。さっぱりしてて美味しいもんな」
「だよねー! あ、良ければ今度作って持ってくるよ。おひたしのすっごい美味しいレシピ、いっぱいあるの!」
 せっかくひたし様が頑張って考えたレシピだ。もっと色んな人間に広めてあげないと。さと子の言葉に少し力がこもる。
「ああ。楽しみにしてる」
 達海は微笑んだ。それに対してつい、「よっしゃ!」と声を上げてしまった。
「よっしゃ? そんなに俺におひたしを食わせたかったのか?」
「え!? う、うん! そ、そうっ!!」
「じゃあ、たくさん頼む」
「ええもちろん! あ、そうそう、ご飯一緒に食べない?」
 さと子の提案に、達海は頷いた。2人で人気のあまり無い休憩場へ行くと、お互いに弁当を取り出す。しかし、さとこが布で包まれていた弁当箱の中身を見ると、「おっ」と声をもらした。
「弁当にカレーか? 珍しいな」
 そう言えば、今までと違って、元に戻る瞬間を見ていなかった。達海との会話に盛り上がりすぎて、気づかなかったのもあるが、恐らく彼自身も、2人のことを気遣って元に戻ったのだろう。運動など、今朝の全力疾走くらいしかしていないのだが……。あまり話が出来なかったので、悪いことしたかなぁとさと子はタッパーの中のカレーライスを見た。
「そのカレー懐かしい感じがして良いな。お前、こう言うカレー作るんだ」
「ああ、これは作ってもらったの」
「母さんにか?」
「う、うん。そうそう」
「なら、母さんに作り方教わったらどうだ? それ、懐かしくて優しい味で俺も好きだ。けど俺は料理得意じゃ無いしな……出来れば、それも一度食べてみたい」
「良いけど……」
 さと子は達海の弁当を見る。とても上手に見えるし、彩りも良い。まるで女性が作ったかのようなきめ細やかな弁当だ。
「達海、それめっちゃ上手くない?」
「これか? これは同僚に貰ったんだ」
 始めは相槌を打ったさと子だが、改めてその言葉の意味を理解し直すと、目を見開いて、「ええっ!?」大声を上げる。
「これ、貰い物!?」
「ああ。良く分からんが、何時も料理の腕を上げる為に食べてほしいってくれるんだ。毒味させるなんて失礼だよな。美味いから断らんが」
「いや……それ、絶対毒味じゃないと思う。多分その人、達海のこと……」
 さと子が言おうとした時、達海が腕時計を見て急いで弁当をがっついた。
「すまん、もう時間無いから先行くな。おひたし、楽しみにしている」
 達海が去ってしまった。取り残されたさと子は思わず呆れる。
「毒味なわけないじゃん……」
「しかし、相手の言い方も遠まわしすぎるのでは」
「おおっ!?」
 いつの間にかタッパーの中にいたはずのカリー伯爵が隣にいた。一度料理に戻ったのに、また人の姿に戻れるのか。また1つ新たな情報を得た。平静を取り戻し、さと子は普通に会話を続ける。
「うーん、女子って大概そんなもんでしょー気づかない方も方よ」
「腕を上げる為にと言われてしまったら、勘違いすると思いますがねぇ。達海さん、あまり他人に興味なさそうですし」
「それはあるわぁ。アイツって根は良いヤツなんだけど、見た目冷たそうだから近寄りがたいんだよね。カリー伯爵みたいに紳士だったら絶対モテてるのにさ」
「カレーライスとしては、人気がある方ですがね。実際はどうなのでしょう。それより、さと子さんも時間が無くなってきてますよ。本日は、早朝一生懸命走りましたから、運動は結構です。さぁ、急いで召し上がれ」
 カリー伯爵は、本来の姿をまたタッパーの中に戻した。タッパーのふたを開けると、ほんのりと湯気が漂う。このスパイシーな匂いが食欲をそそる。
「いただきます!」
 スプーンでカレーをすくって食べる。ファミレスやカレー屋さんで食べるカレーとは違う、懐かしくて優しい味。だが、小麦やジャガイモを使っているので、お腹にはしっかりとたまる。まろやかなので辛さでむせることもなく、しょっぱい赤い福神漬けがアクセントづく。お母さんが作るカレーとは違うが、昔祖母が作ってくれたっけ。祖母はもういないが、祖母といた頃のことを思い出した。カレーの作り方教われば? なんて達海は言ったが、誰に教われば良いのだろうか。カレーを口を運び続けていると、このカレーを作ってくれた主を思い出す。
「じゃがくんか!」
 ジャガイモばかり食べてしまったので今日は違う料理を食べたいところだが、近いうちにまた肉じゃがを作って聞いてみようと考えるさと子であった。
 色々なことを考えながら料理を平らげると、両手を合わせた。
「ご馳走様でした!」
 タッパーのふたを閉め、再度布でくるむと、さと子は少しでも運動しようと階段で駆け上がって行った。

――現在の体重、92キロ