*** 一年七ヶ月前 ***



沙菜が初めて俺のマンションを訪れた日。

「離婚をしました」

彼女ははち切れんばかりのお腹を抱えてそう言った。
中には別れた夫との子どもが入っているらしい。

両親の葬式以来、ろくに顔を合わせていなかったのだが、その間、彼女の身に何が起きたというのか。


彼女には頼れるような両親も親戚もいない。
そんな状態でシングルマザーだなんて、どれだけ困難であるか――俺自身が同じような境遇である母の姿を間近で見てきたわけだから、容易に想像がついた。

女手一つで俺を育て上げた母。彼女が苦労してきたことは俺の目から見ても明らかだったし、俺自身、そのせいで我慢してきたこと、犠牲にしてきたことがある。
母を恨んだ時期もあった。
そんな母は亡くなって、俺も大人になって、今は感謝の気持ちしかないのだけれど。
それでも彼女の人生は、辛く厳しいものだったに違いない。


もちろん、沙菜もそれが険しい道のりであることを了承しているのだろう。
軽々しい理由で離婚を決意した訳ではあるまい。
何より、彼女の顔に張ってある大きな絆創膏がそれを物語っていた。
――身重の嫁に暴力を振るうとは、最低な男だ、と吐き気がした。

同時に俺は約束を守れなかったことに対する罪悪感に襲われた。
あいつの親父に『沙菜をよろしく』って言われたのに。
よろしくするどころか、彼女と俺の関係は出会った頃のまま何ひとつ変わっておらず、兄妹どころか赤の他人と形容した方がしっくりきていて。

接し方が分からないなんて幼稚な理由で、彼女に近づくこともせず、放っておいた俺が悪い。
もう少し俺が『兄』として彼女のそばで見ていてやったなら、こんな最悪の末路を辿らなくても済んだのだろうか。


か細い腕で大きなお腹を抱える彼女。その姿が酷く孤独に見えて、こんな俺ですら心が痛んだ。

「助けてくれ」という声が聞こえたような気がした。

たぶん、こいつが頼れるのは俺しかいない。