——————"高野くんが転校した"。


夏休み明け。わたしたちの世界は夢から覚めたみたいに動き出して、茹だるような暑さに蝉の声が溶けていた。

日焼けした肌を見せ合うかのように騒ぐクラスメイトはみんな、好奇心を膨らませながら、けれどもどこか畏れを含んだ声で"彼"について話している。


親が離婚したらしい。借金が返せなかったらしい。夏休み中にヤバイことに手を出したらしい。

何ひとつ確かでない噂話に女の子たちの想像は弾けて、在りもしない現実を作り出しては笑う。制服を着崩した男子は、まるでそうするのが当たり前だというようにニヤニヤと下品な笑みを浮かべながら、ひとつだけ空席の"彼"の机にだらしなく腰をかけていた。



この、狭い教室に広がる空気が、鬱陶しくてたまらない。無言のうちに噂話を楽しむことを強要してくる瞳を、わたしは睨み返すことはできないけれど。

ぴんと伸ばした背筋で、文庫本の文字を追う目線で、同じになりたくないと訴えることはできているだろうか。



チャイムが鳴った。

カラカラカラ、と軽い音を立ててドアが開き、担任教師が入口に姿を見せる。それを合図にそれぞれの席へ戻っていく生徒たちを眺めながら、教壇に立った担任は、挨拶もそこそこに口を開いた。



「知っている人もいるかもしれませんが、うちのクラスの高野くんが転校しました」



そんなことみんな知ってるぜ、と声をあげたのは、さっきまで高野くんの机に腰かけていたあいつだ。そして、それを皮切りに、教室はまた喧騒で溢れかえる。


やっぱり夜逃げかな。でも、高野くんのお家ってすごく大きいって、遊びに行った男子が言ってなかったっけ。お金持ちなんじゃないの。親が浮気して出てっちゃって、学校来るの恥ずかしかったんだよ。あたし、不良と遊んでたって聞いたよ。高校生とバイク乗り回してたんだって。ほんとに? 警察沙汰とかなってたら、マジウケるんだけど。

そんな話と一緒に、クスクスと笑い声が零れる。


「せんせー、高野クンはどーしてテンコーしたんですかあ」

おちゃらけた男子の尋ね方に、どっと沸く教室。汗を拭きながら、あまり時間がないので、と担任が話題を変えた。


「いまから進路希望調査票を配ります。提出は来週の金曜日までです。家の人としっかり話し合ってください」


前から回ってきたプリントの束から、一枚とって後ろに回す。いつもなら騒がしいはずのこの作業も、進路のこととなると話が別らしい。

嘘みたいに静かになった教室がおかしくてたまらない。今にも漏れそうな笑い声を、必死に無表情の奥に押し込めた。


「始業式は九時からです。男女別で出席番号順に廊下に並んで—————」


ぞろぞろと席を立って廊下に向かう人の流れに乗って歩く。もう誰も、高野くんのことなんて話題にしていない。気になるのは、学力とか、高校の制服とか、内申とか、そんなことばかり。


頭に浮かんでは消える言葉。重たくて、重たくて。きっと一生、わたしの中からでることはないのだろう。






ねえ、高野くんが転校したのは。



————クラスメイトから、いじめられていたからじゃないの?