自分が勤めている会社について100%知り尽くしている人って、どれぐらいいるんだろう?


 半年前に親のコネで転職した会社に、美浜由貴奈はたいして興味も愛着も持っていなかった。前に勤めていた会社で散々な目に遭って退職したので、「失業手当を貰ってしばらくのんびり過ごそうかな~」と思っていたのに、退職して1週間も経たないうちに有無をいわさずに面接を受けさせられた。
 社長・専務・担当部署の部長という取締役勢揃いの面接だったにも関わらず、絶っっ対に入社したくなかった由貴奈は、やる気ゼロの態度で臨んだ。ちなみに、こんな感じ。

社長「当社に入社しようと思った理由はなんでしょうか?」
 →雪奈「親に『面接に行かなきゃ家を追い出す』と脅されたからです。」

専務「差し支えなければ、前の仕事を退職した理由を教えて下さい。」
 →雪奈「直属の既婚上司に交際を強要され、断ったら根も葉もない事実無根な噂を流された為です。」

 なんの脚色もなく、どの質問にもバカ正直にありのまま答えた。社長・専務・部長の3人は苦笑したり顔をしかめたりもせず、うんうん頷いて質問を繰り出し続けた。なんだかんで面接は1時間弱続き、会社が入ったビルから出た由貴奈は、くるりと振り返った。ひとつに結んだ髪が、首の後ろでふるんと揺れる。
 ‥‥なんか、誰かに見られている気がした。でも、背後にはこじんまりとした7階建てのビルがあるだけで誰もいない。ビルの入口に守衛がひとり立っているけれど、来客の案内をしていて、由貴奈の方を向いてはいなかった。
 もう来ることも無いだろうな。そう思いながら由貴奈は最寄り駅を目指して歩いたが、果たして、その予想は1週間後に思いっきり覆されることとなった。大好きな刑事ドラマの再放送を見ながらアイスを食べていた最中に、「採用になったので、来週の月曜日から出勤してください」と連絡があったのだ。
 という訳で現在、美浜由貴奈は「株式会社Billion Leaves」にて事務(という名の雑用係)として働いていた。面接の際に、やる気の無い態度で臨んだ上に開けっ広げに前職を辞めた理由を語ったにも関わらず、採用されるなんて‥‥。「この会社、よっぽど人手不足なんだな‥」と思ったが、各フロアは忙しそうに働く社員で溢れている。人材派遣&安全衛生用品の製造および販売をしていると聞いているけれど‥‥実際のところ、よく分からない。
 だって、取り扱っている商品を実際に見たことは1度だって無いから。由貴奈の仕事といえば、取引先からFAXまたはメールにて受けた注文を、発送を担当する部署へ回して、受注の記録をデータとして残すだけ。簡単で楽な仕事だけど、ハッキリ言って面白くないし、やり甲斐もない。
(‥‥今日は帰りに岩盤浴に寄ろっかな~‥。肩こりヒドイし。)
 溜息をついてから、ぬるくなったコーヒーをひとくち飲む。今日は金曜日。この会社は土・日・祝日は休業しているので、その所為か今日は注文が多い。FAXで送られて来た注文書は20枚近く溜まっているので、昼休みが終わってから、由貴奈はずっと入力に追われていた。
(‥‥‥‥あ、そうだ。「いい感じのお店見つけた」って、『まあ君』に連絡すんの忘れてた。)
 『まあ君』とは、付き合って2年になる由貴奈の恋人だ。高校の同級生で、同窓会で再会して付き合うようになった。付き合った年数とお互いの年齢を考えて、そろそろ結婚を意識している‥‥もしかすると、そう考えているのは由貴奈だけかもしれないけれど。
 まあ君とデートするのは2週間ぶりだ。「いい感じのお店」こと、池袋で見つけた日本酒の美味しい店のホームページを開こうとした由貴奈の肩を、冷たい声が叩いた。
「――――おい、美浜。」
「はいっ、スミマセン。なんでしょうか?」
 検索サイトを開いていたブラウザを、慌てて消す。でも、見られたかも。恐る恐る由貴奈が振り返った先にいたのは‥‥直属の上司である花見川だった。
 花見川礼司、25歳。たまに通勤電車の中で一緒になる受付の女の子から聞いたところによると、どうしゃら社内で最年少の課長らしい。仕事は出来るらしいけれど、とにかく目つきが悪い。愛想が無い。あと、言葉遣いがちょっと乱暴で素っ気ない。常にフワフワと穏やかに微笑んでいる『まあ君』とは対照的すぎて、花見川と向かい合う時、由貴奈はいつも身構えてしまっていた。
 注文履歴の表だけが映るノートパソコンの画面を睨んでから、花見川は鋭い視線を由貴奈の顔へ移動させた。太めの眉と眉の間に、深い皺が1本刻まれている。‥‥あんまり機嫌が良くなさそうだ。
「先月の注文履歴、入力ミスが5カ所あるから直しておけ。あと、来月から新商品を3点取り扱うから、FAX用の注文票に追加してくれ。商品名と品番はこのメモに書いてある。」
 コピーに失敗した用紙の裏を利用したメモを机の上へ置くと、由貴奈の返事を聞く前に立ち去ってしまった。‥‥‥良かった。業務に関係の無いサイトを開こうとしていたけれど、バレずに済んだみたいだ。ほっとして無縁を撫でおろした由貴奈は、唇の端に安堵の笑みを浮かべてメモを摘もうとした。
「業務に関係無いサイトの閲覧すんなって、前に朝礼で言ったよな?今度に同じことやったら始末書書かせるからな。覚えとけ。」
「っ?!」
 伸ばしかけた腕を硬直させて、由貴奈はゆっくりと声のした方を向いた。眉間の皺を更に深く刻んだ花見川が、パックの中に1つだけ混ざっていた腐ったイチゴを見るかのような目で、由貴奈を睨んでいる。
 ‥‥‥残念、やっぱりバレてた。
「‥‥‥‥‥スミマセンでした。」
 ああ、もう。仕事中にちょっと飲食店のサイトを見ようとしただけで、なんで年下の上司に怒られなくちゃならないんだろう。第一、こんなのやりたくてやってる仕事じゃないし。
 明らかに「不本意な謝罪」をしている由貴奈へ、花見川はそれ以上、何も言わなかった。底が削れて薄っぺらくなったサンダルの踵をぱたぱたと音を立てるのに合わせて、花見川の気配が遠ざかってゆく。しばらくの間、己の爪先を眺めていた由貴奈は、花見川の気配が完全に消えてからゆっくりと顔を上げた。
 ‥‥‥‥‥‥早く辞めたい、こんな会社。
 また溜息をついた由貴奈は、花見川の置いてメモを掌の中で握り潰した。八つ当たりするかのように、ひとしきり強く握り締めてから開いたメモは、書かれていた文字が掌の汗で滲んでしまっていた。
 別の課の課長代理も務めている花見川は、滅多にこちらのフロアには来ない。「当分、課長の不機嫌な顔見たくないな」と思いながら、由貴奈はカップに残っていたコーヒーをすべて飲みほした。
 しかし由貴奈は、翌日、呼び出された先で花見川と顔を合わせる羽目となる。そこで聞かされたのは、最悪な話だった。