ケータイ小説 野いちご

【掌編集】数奇屋の話

【企画:殺し愛、空】作品集
『風樹の嘆』

 企画名「殺し愛、空」文字数:五千文字まで
 固定シチュエーション
 「故意ではない殺人を犯してしまった直後~警察に捕まるまで」
 公開日:2月14日

 というお題で書かせていただいた作品です。

◆     ◆     ◆     ◆

 何も思い出したくない。忘れたい。現実から逃げ出したい。
 頭が割れそうな叫びだけが、脳内で繰り返されていた。
 感情を操作しきれないまま病室を跳び出すと、扉の横に寄りかかる。
 そして、自分のものとは違う体温と感触を掌に覚えながら、リノリウムの床に座りこんだ。
 爆発しそうな鼓動を鎮めるため、左胸を押さえるが叶わない。
 唇に震えが表れ、男の生き方として封印し続けてきた涙があふれた。
「何も思い出したくないわけがないじゃないか」
 先程、脳内で叫んだ言葉を修正しながら手で涙を拭う。
 その時だ。
「耕介さん」
 名前を呼ばれた。顔をあげると担当の女性看護師だった。
 涙で濡れているであろう俺の顔を見た看護師の目が見開かれていく。そして病室に飛び込んでいった。
 そう、俺の状態を見たら、馬鹿でもわかるはずだ。
 末期癌で苦しんでいる母の身に何があったのかということなど――。
「久代さん。馬鹿なことを言うのはやめて」
 看護師が母に言った直後、重い落下音が響いた。
「誰か、先生を呼んできて!」
 病室内にいる母が何をしたのか俺は察した。
 ただ、事実を知りたくないために確認することは出来なかった。
 看護師の悲鳴を聞きながら、俺は両手で顔を覆う。同時に押し殺していた声が出た。
「俺がやったんだ。俺が……」
 満足に親孝行をできなかった俺は懺悔するとともに、母が天国に逝けることを願うだけだった。
 三十年前に轢き逃げ事故で他界した、父のもとに逝けるようにと。


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