朔ちゃん・・

待って・・・・

お願い・・・

行かないで・・・・





「!」

陽和は目を開いて
現実を確認する。


今日は
2011年4月1日。
朔の物語から
遡ること3年。

陽和はベッドに
横たわったまま
壁にかけている
カレンダーの印を
目で追った。

陽和にとって,
今日,夢の第一歩を
踏み出す日。

・・・そんな日なのに・・・。

また,同じ夢を
見てしまった自分に
嫌悪感すら覚えた。

これで何度目だろう。
陽和は月に1回は
必ずこの夢を見る。

大好きだった・・・
朔ちゃんが
急にいなくなる・・。

それは・・
現実だったんだけど・・

朔ちゃんが
悪いんじゃない。

自分が自己嫌悪に
陥っている・・・
ただ・・それだけ。

それは・・・
12歳のころから
ずっと陽和の心を
悩ませていた。





今日から陽和は
夢だった
保育士としての
生活を始める。




どうしてなんだろう。

高校に入学するときも
大学の保育科に
入学した時も
一人暮らしを始めたときも・・

何かを始める時には
決まって,陽和は
この夢を見た。

どうしてなんだろう・・・。


「今日からお世話になります。
 高須賀陽和といいます。
 初めてで
 わからないことだらけで,
 ご迷惑もおかけすると
 思いますがどうぞ
 よろしくお願いいたします。」

リクルートスーツを着た
陽和は,職員室前方で
深々とおじぎをした。

緊張したけれど,
こういうことが一番
苦手な陽和は,
ちゃんと自分の言葉で
伝えられたことに
満足していた。

「私,頑張ってるでしょ?
 ・・・朔ちゃん?」

陽和は誰にも聞こえない
小さな声でそうささやいた。

陽和は,こうやって
ちょっとずつだけど,
何かできるようになったり
一歩前に進めたりしたとき,
決まって
彼の名前を呼んでしまう。

幼い頃・・・
勇気がなくて
傷つけてしまった
・・・あの人の名前を。



陽和がここまで
自分の苦手なことも
頑張って来れたのは,
いつか・・・
いつの日か・・・

朔ちゃんに
褒めてもらうためと
思い続けてきたから。


好きになってほしいと
までは思わないけれど・・。

いつの日か,朔ちゃんに
少しでも認めてもらえる
ような人間になりたい。

とにかく,
「よく頑張ったな。」
「頑張ってるな。」
って,朔ちゃんに
言ってもらいたい。

あのころの勇気のない
弱虫な自分が・・・憎い。


陽和は「あのとき」から
ずっとずっと
その思いに苛まれてきた。

自分に
もう少しだけ
強い気持ちがあったら
朔ちゃんのこと・・
失わずに済んだのでは
ないかという
後悔の思い。

だから・・・せめて・・・
朔ちゃんへの償いも込めて・・・

強くなった自分を
見てもらいたい。

そのために・・・
それまで苦手だと
逃げてきたことにも
立ち向かってきた。

「高須賀先生は,
 岩村先生の補助ということで,
 チューリップ組の
 副担任をお願いします。」

「はい!」

陽和は岩村先生と呼ばれた
30歳くらいの
先生について
チューリップ組の
教室へ入った。

「よろしくお願いします。
 岩村芽衣子です。」

そう自己紹介した
芽衣子は,
右手を差し出して
陽和に握手を求めた。

「高須賀陽和です。
 よろしくお願いします。」

陽和は戸惑いながらも
笑顔で芽衣子に応えた。

「じゃあ,ひより先生でいい?」

「え!はい!」

「私はめい子先生でいいから。」

「あ!はい。
 よろしくお願いします。
 めい子先生。」

「はい!」

芽衣子は満面の笑みで
陽和を見た。
その見るからに
明るく元気そうな風貌に
さすが保育士・・と
圧巻させられる。

「きゃー!
 やっぱり新採の先生って
 若くてかわいい!
 私にもそんな頃が
 あったのよねえ。」

しみじみという芽衣子。
陽和は,若々しい
芽衣子に,まだ
そんな年齢でもないと
思うけれど・・・
と不思議な気持ちだった。
 
「ホントに私,
 何もかも初めてで
 とても不安だし,
 ご迷惑もおかけするとは
 思うのですが・・・。」

陽和がそういうと,
芽衣子は豪快に
笑い飛ばした。

「大丈夫!
 最初なんだから
 失敗は当たり前。
 それを恐れていたら
 前に向いて進めないよ!

 まあ,ゆっくりで
 大丈夫だから
 一緒に頑張りましょ!」

見るからに
ポジティブそうな芽衣子は,
やはり見た目通り
ポジティブ思考の塊だった。

「はい!
 ありがとうございます!」

陽和も,根拠の有無は
置いておいて,
芽衣子にそう言われると
大丈夫な気が少しだけ
していた。

陽和はこのときのことを
後々思い返すたびに,
保育士に就いて
最初の出会いが
芽衣子だったことは
本当にラッキーだったと
思った。

このときに芽衣子に
教わったことは
陽和の保育士人生の
基盤となった。

芽衣子は,何一つ
わからなかった陽和に,
丁寧に細かく
手とり足とり教えてくれた。

自分の仕事だけでも
大変だろうに,
若くして
後進の指導にも
力を入れることのできる
彼女を陽和は尊敬した。

春休みは5日ほどで終わり,
いよいよ明日からは
子どもたちがやって来る。


「子どもたちが来ると
 本当に同じ保育園?って
 思うくらい,
 景色が変わって見えるわよ。」

クスクスと笑いながら
芽衣子は陽和に
話しかけた。

陽和は芽衣子の
言わんとすることが
一瞬わからずに
「えっ?」
という顔を返した。

だけど陽和は
すぐに
その答えがわかって
苦笑しながら
子どもたちのことを
思い浮かべていた。

どんな風な子どもたち
なんだろうか・・・。
ちょっと怖いと
思いつつも
陽和にとっては
「楽しみ」というような
気持ちの方が
数倍大きかった。

「今,どう思った?
 怖いって思う?」

芽衣子は優しい表情で
陽和に聞いた。

陽和はこれが
正しい答えなのかどうか
不安を持ちつつも
心から慕える
芽衣子に本心を話した。

「え・・・えっと・・・
 正直に言うと
 ちょっと怖いなって
 思いましたけど・・・
 それよりも
 楽しみの方が大きいです。」

そういうと,
芽衣子の表情は
ぱっと明るくなった。

「うん!いいわ!
 ひより先生!
 いい感性している!

 この調子で明日からも
 めげずに頑張るのよ!」

「え・・!?
 あ・・はい!」

芽衣子はいつもの
豪快な声に戻った。
そんな芽衣子の様子に
陽和も少しだけ
気合を入れなおした。

芽衣子は
「細かいことは,
 始まってからで
 大丈夫だから。」
と言いながらも,
ずいぶんと
きめ細かいことまで
陽和に教えてくれた。

芽衣子の教えは全て
子どもたち
一人ひとりのことを
よく考えて,
本当に事細かく
気を配っていことが
伝わるものだった。

豪快な性格の芽衣子の
繊細な心遣い。

「すごい…
 これが…プロの仕事なんだ」と
陽和はまざまざと
見せつけられた気分だった。

と同時に,
陽和は自分自身も
子どもたちの前では
芽衣子と同じ「プロ」で
ある事実に少し足が竦んだ。

いくらはじめてとはいえ,
芽衣子と同じ土俵に
立たなくてはいけないのだ。

だけど,芽衣子の言う通り,
怖がっていても
仕方がない。
陽和は自分の頬を
軽く両手でたたいて
さらに気合を入れた。


翌日。
保育園の始業式は早い。
世の親たちは,
年度初めだってもちろん
仕事はある。

陽和は,
年少さんにあたる
3~4歳児のクラス
「チューリップ組」の副担任
だった。

陽和の勤める保育園では,
およそ3分の2は
2~3歳児クラスからの進級。
そして,3分の1が
新たに保育園に通い始める
子どもたちだった。

幼稚園でいうと,
まだ,はじめて通い始める
年齢の子たち。

これまで集団生活を
してきた子と
そうでない子では
かなり反応に差がある。

今日も,入園式や始業式で
泣く子が多数いた。

「明日の朝はもっと
 壮絶よ。」

芽衣子はわざと
陽和を怖がらせるような
声色で言った。

「え!?」

陽和は目を丸くして
芽衣子の方を見る。

「明日は,親と別れて
 初めて…の子が
 たくさんいるからね。」

芽衣子は理由を
陽和に伝えると
陽和は納得した
顔をした。

「ああ…なるほど。」

毎年,きっと
大変なんだろうなと
陽和は思った。

その様子を芽衣子は,
苦笑しながら見ている。

「そりゃそうよね。
 今まで,ずっと
 依存していた人が
 急に近くにいない生活が
 始まるんだもの。」

「…ええ…。」

なるほど,『依存』か。
陽和は芽衣子の
鋭い分析にまた
納得させられた。

 そうだよね。
 小さい子は親に
 依存していて当たり前。

 何もかも依存していた
 ところから
 ほとんど覚悟無く
 突然離れて生活する
 時間ができる。

 子どもにとっては
 はじめての大きな試練かも
 しれないなあ…。

目の前で親に
甘えている子どもたちを
眺めながら,
陽和はそんな思いに
頭を巡らせていた。


「急に…近くにいた人が
 居なくなる…」

陽和は,図らずも
口をついて出た
その言葉にはっとした。

 あの頃の私は…
 朔ちゃんに…『依存』して
 いたのだろうか…?

そんな思いが
陽和の頭をまためぐる。

 そうなのかもしれない。
 私は朔ちゃんに
 依存していたのかも。

 恋心なんかではなく
 ただ,支えて
 守ってほしかった
 だけだったのかな。




翌日の朝は,
芽衣子の予言通り,
なかなか壮絶だった…。