いつものように飯を食いに行った船宿が、やたらとてんやわんやの大騒ぎになっていた。
 不思議に思っていると、綾の母親が嬉しそうに話しているのが聞こえたのだ。

『綾が、殿様の目に留まった』

 慌てて綾を呼び出し、問い質したのだが。

「今更何を。あのときお前、何言ったか忘れたか」

 朝芳の持つ筆が、絵皿の中で、すっと線を描く。
 皿の中の紅色が、一瞬二つに割れた。

 船宿の裏で、逃げようと言った朝芳の手を、綾は振り払ったのだ。

『馬鹿言わないで。折角玉の輿に乗れる機会だってのに』

 綾の口から出たその言葉に、朝芳は耳を疑った。

『な、何言ってんでぃ。そんな、相手が殿様だからって、綾が犠牲になることぁねぇ。俺がちゃあんと、養ってやるから』

『犠牲じゃないわよ。大体、絵師なんて食っていけるわけないじゃない。そんな人と一緒になるのはご免だわ』

 そう言って、あっさりと綾は朝芳を捨てたのだ。