セカイが消えた。
錯覚という認識が事実の認知に変わったのは、自と他を比較した頃からだった。

当たり前、と権利を濫用していた自分に突き付けられた損失の重み。事前の禁止令もなしに突然失った気分は、奪われたと何かを恨みたかったのではなく、自分は“出来ない”のかという不信による不安で埋め尽くされていた。

問おう。
────“見えない”という感覚を体験したことはあるだろうか。

掠れるのでもなくぼやけるのでもなく、全くの闇、全くの黒である。
カタチがない、長さがない、広さがない、高さがない。それより何より、在った筈のモノがもうない。このセカイにも、自分にも。
損失である。
在る、在ったからこそ感じる虚無感、初めて思い知る罰のような痛みである。

それらを、体感したことがあるだろうか。
大方、その答えはNOであろう。

彼の者はかつて謳った。
「目が見えるという幸福は、目が見える者には決して理解し得ない」と。

哀しいかな。
我々は祝福を受けながらにして幸福を自覚できない。否、己の根底部分で幸福を自覚していながら、それは幸福でないと否定している。

それは我々の原罪と言えるのではないか。
元来既知状態であるが故に、罪の自覚には罰の痛みが付き纏うのではないだろうか。

だがそれは同時に、罪の自覚が幸福の自覚になる事を意味している。
即ち────“当然”の話ながら────贖罪が幸福に繋がるのである。


ならば、我が正義を以って罪ある者に幸福を教えよう。

そのセカイを奪ってみせよう。

その視界を奪ってみせよう。

黒き闇の中で、幸福を噛み締めさせよう。