僕がティーンエージャーの頃より知性の錬磨に主力を傾注し、そうすることで心の安らぎを求め、理性を極めれば人生を極められると信じていた事は、貴方に告白しました。僕にとって、理性の中心にあるものは科学でした。科学を話す為の言語が数学でした。そして数学こそは、自己完結した究極のもの、人類が手に入れた純粋で完璧な美だと信じました。それ自体は宇宙の仕組みに就いて何も語りませんけれども、科学と手を結べば、数学ほど雄弁に、明晰に、宇宙を語る言葉は無い。しかも、数学それ自体が美の中の美、美術は[もと]素より、音楽よりも美しい美、いえ、芸術など比較にならないほど美しい美、決して自家撞着する事のない完全な美の体系だと信じて、十三歳よりその虜になりました。実に、数学こそが僕の初恋、僕の神様でした。僕の第一の絶望は、十六の時にやって来ました。即ち、僕の恋を数学的に立証する事は己の影を追う類、バケツの中に立って己を持ち上げる類の夢物語だとの証拠を、自分の目で見た時。それは取りも直さず、人間の理性そのものが不完全である事を意味しました。仮に僕がどんな偉大な頭脳を獲得しようとも、理性そのものが不良品ではどうしようもありません。理性が間違いなく理性的だと云う事すら、それを理性のみを以て立証する事は不可能なのでした。それは立証できるのでした。皮肉にも、理性は自身の不完全さは立証したのです。彼女は拳銃を自身の頭に突き付けており、いつ引き金を引かない限りでもない。僕は引かないと信じはする。引かない保証は無い。僕の初恋は、そう云う気まぐれな自殺志願者なのでした。直観的に心配していた事が、厳密に示されていたのです。僕の落胆を想像して下さい。僕は完全主義者です。多分、僕は理性を通して完全に近付こうとしていたのだと思います。明らかに、全ての真理を知ることは出来ません;三年生だってそんな事は企てません。しかし、少なくとも、頭脳を研ぎ澄ませば、自家撞着しない知性を手に入れる事は可能だと信じていました。神様は、僕のささやかな望みを、僕が生まれる以前に既に打ち砕いていたのです。僕がどんなに努力しようと、自家撞着しない保証は無い。僕は知性の錬磨から、知識の集積に重点をずらしました。出来るだけ沢山知りたかった。第二の絶望は直ぐ後に続きました。完璧でない知識 ─ ついでに云わせてください:その頃の僕に取って、完璧でないものは、ガラクタよりかほんのちょっとだけ増しだったと ─ それを満足に知るのにさえ、僕の能力では三百年間生きなければならないと悟った。それからと云うもの、僕は人生に絶望し続けているのです。貴方に告白したのは、実はそう云う絶望でした。