元治元年 七月二十一日


快晴



先日の洛陽動乱(池田屋事件)が長州へと報ぜられると、昨年八月より京より放逐されていた彼等の怒りは頂点に達したらしい。


会津藩主であり京都守護職である松平容保殿等の排除を求め、兵を率いて京へと進軍。


一昨日、蛤御門付近にてその戦端が開かれた。


市中で行われた戦闘は白兵戦のみに収まらず、銃や大筒までもが使用され、町には火薬の臭いが立ち込めた。


が、会津、桑名、薩摩の応戦により長州は敗走。戦闘はその日の内に終息した。


しかし奴等が落ち延びる際に放った火と、奴等を炙り出す為に放たれた火とが風に煽られ瞬く間に広がった。


町を焼いた炎は今朝漸く収まりをみせたものの、多くの建物が焼失。


多くの罪もない人々が死んだ。


それはどんどん焼けや鉄砲焼けなどと口ずさまれ、荒廃した町では恨み言が囁かれている。


勿論仕掛けてきたのは向こうであるが、此方側にも市中で応戦し、火を放ったという事実があった。


多くを失った彼等のその感情は一体何処へと向かうのだろうかと、一抹の不安が過る。