「お腹が空いただろう。此処は何でもうまいからいつもお任せで頼んでいるがそれでもいいだろうか」

「ええ、そのように……」





この状況で食事などできるはずがない。穴があったら入りたいとはこのことだ。





「疲れているんだ、気にしないで」



恥ずかしがって俯いている葵に、優しい言葉を掛ける。それがますます、気落ちすることになっているとは、仁は気が付かない。





「はあ……」





仁はウエイターを呼び、お任せでと食事を注文する。





「この小説、なかなか面白い」





手に持っていた文庫本を軽く持ち上げ、葵に見せる。

俯いていた葵だったが、仁の一言で、顔を上げ、晴れやかな顔付きになる。





「そ、そうなんです。作家がとても好きで、全作品を読みました。道徳の教科書を読んでいるような文章で構成もいい、そしてなによりすっと自分の中に素直に入ってくるんです。あ、名波さんはどんな小説を?」





違う話題を振ってくれたことで、気まずい雰囲気が一掃された。





「最近は読んでいる時間がなくてね。もっぱらビジネス週刊誌か新聞、小説は新聞で連載しているものを読むくらいだな」

「そうですよね、お忙しいから」





幾分、仁のペースに巻き込まれながらも会話はなんとなく出来ていた。

程なくして食事が運ばれ二人は食べ始める。ホテル勤務だ、マナーは心得ている。披露する場はなかなか無かったが、身に着けていると社会人として恥ずかしくない。マナー研修では面倒だと思っていたけれど、この場において、それは有難かったと感謝する。





「では……」





仁が選んだスパークリングワインを飲む。





「おいしい……こんなに美味しいワインを飲んだの初めて」





ワイングラスを見つめ、あまりの美味しさに葵はグラスに入っているスパークリングワインを一気に飲み干す。





「どうぞ」

「あ、すみません」





葵は食事の前にワインをかけつけ三杯飲み干した。美味しいと言うことはもちろんだったが、醜態をさらしてしまったことに、やけくそになっていたのもある。
しかし、その様子が仁にはとても微笑ましかった。
葵は椅子に座っているのに体を左右に揺らしリズムをとっている。よほど美味しいのだろう。仁は、葵に料理を取り分け、葵はそれをかたっぱしから片づけた。だが、空きっ腹にワインを一気に飲んだせいか、酔いが回っている感じだ。飲むと更に食欲がます葵は、料理もどんどん平らげる。



「もっと何か食べる?」



葵の食べっぷりに、仁は追加を提案する。





「はい!」





葵は本来の要件をすっかり忘れ、ワインと食事の虜になっていた。また、飲むとおしゃべりになる葵は、機関銃の様にしゃべり倒す。それでも仁はずっと相槌をうちちゃんと受け答えもしていた。

仁は酒に弱い。葵と出会うきっかけも酒がらみだった。もちろん乾杯をするための一杯を飲んで後はずっと水を飲んでいた。

しかし、気が付けば、開けたワインの瓶はなんと三本。余程気に入ったのだろう、全てスパークリングワインだった。