(今はまだ冬だよな…)
地下鉄の出入口から地上へ出た途端、眩しい光が目に入り考え直した。寝不足の眼に降り注ぐ太陽光に、思わず舌を打つ。まだ朝の八時半だというのに、会社へ行かなければならないなんて、俺はツイてない。
(大体、サラリーマンなんて仕事は、性に合ってねーんだよ…!)
仕事のできない奴の常套句。こんな時、ポンッと辞められる程、勇気も思いきりも俺は持ち合わせてない。せいぜい、スーツの上着を肩にかけ、粋がって見せるのが精一杯ってとこだ。
「あーあ、やってらんねぇ…」
小さく呟く。この半年、俺はホントによく生きてきたと自分でも思う。
半年前、嫁が家を出て行ってから始まったシングルライフ。最初の頃は、かなり自暴自棄になってたけど、最近ようやく慣れてきた。

『市役所に提出して下さい』
テーブルに置いてあった書き置きと離婚届。既に嫁のサインは書いてあった。

「ふざけんな!」
ヤケクソ半分で、名前を書き提出した。
それからの日々、長かったと言えばそうだし、短かったと言えばそんな気もする。
とにかく後を振り返らず生きようと思えば思う程、過去に引きずられて、重苦しい毎日だった事には違いない。
毎晩ヤケ酒を飲んで、仕事はミスを繰り返した。

「あれだけミス重ねて、よくクビになんなかったな、俺…」
振り返って、少し呆れる程だった。会社って所は、案外と離婚者に優しいらしい。
街路樹の間を抜けて、見えてくる会社のビル。交差点の信号に引っ掛かり、やれやれと重く息をつく俺の肩を、馴れ馴れしく叩く奴がいた。

(誰だよ…)
ダルそうに後ろを振り返り、ギョッとなった。朝っぱらから顔を合わせるには、一番マズい相手が立っていた。

「お、おはよーございます!三浦主任…」
(やべぇ…)

そう思ったのが第一印象。今日から出勤予定なのは覚えてたけど、こんな朝っぱらから会うとは思ってもみなかった。

「おはよーさん、朝から暗いな、裕」
不敵とも取れる笑みを浮かべる。内心ヒヤヒヤしてる俺の気持ちが分かってるみたいだ。

「そ…そうですか?いつもこんなですよ、俺…」
テンション落とさず、おどけて話す。心の中には、主任への焦りみたいなものが隠れていた。

「あの俺、急ぐんで…」
信号が変わり、ラッキーとばかりに踏み出した足を、主任に肩を掴まれ止められた。

「まあ待て。そう急がなくてもいいだろ?」
優しい言い方にトゲが含まれているのは百も承知。だからこそ、逃げたかったのに…。

「今日昼休みに話がある。五階の非常階段に来てくれ」
若干ドス効いてないかという感じ。

(やべぇ…バレてる…)

「分かったか?」

怖い顔して念押し。睨みも効かしてらぁ…。
背中に冷や汗。仕方ない。これも自分の蒔いた種だ。

「分かりました。昼休み、五階の非常階段に伺います」
観念した態度見せると、後はアッサリしたもんだ。
パッと手が離れ、さっさと横断歩道を渡って行く。その背中には、どこかご機嫌な様子も伺えた。

「チッ!なんだよ!」
(結局、俺のおかげで事が上手く運んだんじゃねーか…)

信号一回分遅れた事もあって、余計に心がささくれ立つ。
主任は俺のこと怒っていたようだけど、元々悪いのは本人だ。

「感謝されても、怒られる筋合いはねぇよ…」
都合の悪い事、思い出そうともせず歩き出す。主任は先週の水曜日、出勤停止を言い渡された。たまたま細かいミスが重なり、業を煮やした編集長に怒鳴り声を上げられた。

「帰れ!お前は今週いっぱい仕事に来るな!」
俺ですら言われたことのない言葉に、部内にいた全員が驚いた。
主任は黙って立ち上がり、編集長に頭を下げて出て行った。あれから週が明けた今日までの四日間、ホントに職場へ来なかった。

「ちょっとしたロングバケーションじゃねーか。羨ましい話だ…」
滞っていた同居人の彼女との仲も、その間に上手くいったに違いない。さっきの主任の様子がそれを物語っていた。

(それもこっちが一役買ったからじゃねーか、なのに昼休みに説教かよ…)
「こっちはいい事なんか何もねぇってーのに…!」
イライラしながら会社に着いて、仏頂面したまま受付を通り過ぎようとしたら、同期入社で受付嬢をしている、藤村という女子社員から声をかけられた。

「おはよう!裕くん」
同期だからって、その呼び方はねえだろ。

「はよ…」
ムッとしながら短く返す。素っ気ない俺の態度に、藤村が呆れて言った。

「機嫌悪〜い。少しはあんたのトコの主任さん見習って、爽やかに挨拶してみなさいよ。『藤村さんおはよう』って」
思い出しながら真似してる。女って奴は、ホント優しい男に弱い。

「アホか…」
悪態ついて前を通り過ぎる俺に、舌を出し横を向く。

(ガキか、こいつは…)
相手にせず、ぷいっと背中を向けた。主任が機嫌良く挨拶するのは当たり前だ。俺がそのきっかけを作ってやったんだ。

「でも呼び出し食らうんだよ…なんでかなぁ〜」
何を言われるか、分からないとこに恐怖がある。主任のように、一見爽やかで穏やかな人ほど、怒らせると後が怖い。

「はぁ〜…」
諦めるように息を吐いて、編集部のドアを開けた。
一番奥の上座では、編集長と二人、既に仕事の打ち合わせをしてる主任の姿があった。

(相変わらずサバけた人だな…)
四日間のブランクなんて全く感じさせない。この人にとっては、四日の休日も、短い休憩みたいなもんなんだろう。