「涼子ちゃん、どうだった。」
「最悪だった・・愛人になれって。」
「愛人?何それ?」
「あっ、あきちゃんごめん。電車来ちゃった。後で電話しても良い?」
「良いよ。電話待ってるね。」
携帯電話から聞こえてきた、あきこの甘い声は、傷ついた涼子の心に優しく響いた。地下鉄の電車に入ると、日曜日の夜十時を過ぎているせいか、椅子の端に数人座っている程度しか乗客はいなかった。疲れを感じ椅子に座ってしまいたかったが、どうしても電車のガラスに映る自分の顔が見たくなって、中央の乗車口のドアにもたれかかった。黒いガラスが鏡のようになって、暗い顔の疲れたオバサンの顔をうつしだしている。32歳、その時々で恋愛の対象になる女性の顔になったり、オバサンの顔になったりと、ひじょうに微妙な年頃だ。

朝、化粧のりが良い時は、まだまだ大丈夫・・まだまだ大丈夫・・と心の中で独り言をつぶやいたりする。でも、残業を終えて疲れきって部屋に戻ると、そこにはドロドロになったオバサンがいる。三十二歳は、本当に微妙な年齢なのだ。地下鉄は、すごい音をたててカーブを曲がった。まるで真っ黒な闇の中に吸い込まれていくようだ。闇の中に吸い込まれながら、涼子はとても孤独を感じていた。田舎から東京に出てきて、はじめて地下鉄に乗った十代の頃。自分の努力次第で、何でも願いが叶えられて、明るい将来が約束されている。そんな、ワクワクする気持ちを地下鉄に乗ると味わったものだった。あれから十年以上が過ぎ、状況によって人の気持ちは、こうも変わるのかと涼子はしみじみと感じていた。