電話が鳴っている。
 この時間ならその電話はほぼ間違いなく羽田のはずだ。でも駿太郎は枕元で鳴る携帯電話を見もしなかった。ふとんを頭からかぶって耳を塞ぐように毛布を宛てる。携帯電話のバイブレーションが切れて程なく、3度ほどまた携帯電話が震えて、それは、メールの着信を知らせるものだった。

 ── 3日目。
 布団から頭を出して、何もなかったかのように洗い立てのシーツの上に鎮座している携帯電話の鈍い光を見つめる。液晶画面に見たゴシック体の文字がまた頭に浮かんだ。
 『しゅんたろー?昨日も声聞けなかったから、時間があったら電話ちょうだい。何時でもいいからね。裕人』 
 昨日の羽田からのメールに、結局駿太郎は返信しなかった。

 何かがおかしかった。何かが狂い始めて、たった一つのパーツを外し損ねてしまうとユラユラと揺れるジェンガのように、もうなにもかもがなし崩しに崩れ落ちて行った。
 古びたホテルのベッドのヘッドレストの傷。糊付けされた真っ白のシーツの煙草の焦げ跡。愛おしいはずだった急いた抱き方。芝生を仕切る都心の公園のチェーンは雀が飛び立っときに大きく揺れた。黒いハイカットのスニーカーの足の運び。ビルの隙間に見える細く眇めた目のような月。くつくつと笑う片頬のえくぼ。木漏れ日の下で、羽田とアスファルトをつないで葉っぱの影が揺れた。フランクフルトを齧る白い歯。紅茶のカップを掻き混ぜるスプーンを摘まむ手。遊園地の門に描かれたパステル画…。

 門を見上げていた羽田の顎のラインを思い出すとそれは、ウィンドーを見上げていた羽田と重なり、ウィンドーの中に見える三体のボディーが、羽田と、少女と、佐々木さんになった。羽田は少女の手を取り、少女は佐々木さんの手を取る。少女が少年だとしても、佐々木さんが別の女性だとしても、いつかそんなふうに羽田は結婚するのだと、その思いを拭い去ることができなくなった。
 そして、それまで気にもしなかった、羽田の就職活動もその一歩のような気がした。当たり障りなく、将来を慎重に見据えた選択。自分の希望もそれなりに叶え、親の期待にも同時に応えることができる優等生の羽田。── いつか、彼は抗えずにきっと。もしかしたら、抗うことすらしないのかもしれない。

 「裏切り」

 それは、ただ駿太郎の頭の中だけで起きている想像を超えない、くだらない妄想とさえ呼べるものであるのに、駿太郎を頑なに掴まえて離さなかった。駿太郎が作り出した羽田の未来の「裏切り」が、どうしようもなく駿太郎を捕らえる。作り出した「そうかもしれない」という未来が、「きっとそうなのだ」と形を変えて駿太郎を抱いて、その未来は逃れようのない事実になって行った。死ぬまでこの人と一緒だと、そんな夢を見ているわけではない。いつか終わる恋なのかもしれなくても、終わりが来るまでは側にいたいと思うなら…。単純なことなのに、続けるのは辛いだろうか?何度も自分に問う。辛いような気も、辛くないような気もした。そのどちらが自分の答えだとしても今はもう続けていくことに二の足を踏む。駿太郎は羽田を以前と同じ気持ちで思えなくなった気がした。いつ、どこに置いて来てしまったのだろうか。恋しいと思う気持ちはもう駿太郎をやさしく満たすことがない。

 おそるおそる携帯電話を手にする。着信履歴を知らせる光はまるで駿太郎を責めるように点灯を繰り返し、液晶画面を確認するとそれはやはり羽田からだった。
 【着信 羽田裕人】
 【メール受信 羽田裕人】

 『駿太郎、具合悪いの?心配だよ』

 思い出して、迷う。心の中に蟠(わだかま)っているものを押しやってただ『スキ』だと打ったら何もかも元通りになるのだろうか。褪せてしまった自分の想いと鮮やかになる空想の未来。だから、呪(まじな)いように、次から次へと思いを馳せる。

 図書館で、冬の始まりの柔らかい光の中に立っていたまるで見知らぬ羽田。ほとんど泣きそうな顔で自分の名を呼んだ彼の声。ティースプーンを回しながら物憂げに頬杖を付いて、それなのに駿太郎と目が合うと懐かしい顔で笑った。小さな喫茶室のテーブル。メニューのプレートを弄繰りまわす羽田の手や指が、あの頃は、どんな風に自分の肌を這うのかなんて知る由もなかった。そこだけ時が止まったようなホームで羽田がすがった手の小さな震え、熱っぽいメールの数々、公園の光、ビルの明かり、アスファルトを蹴る羽田のスニーカー、そして自分自身の紺色のスニーカーと黄色いラインがつながるどこかに、自分達の未来もきっと穏やかにそこにあると、信じ込もうとしていたほんの数日前、数週間前までの…。
 それでいいはずなのに。それでよかったはずなのに。

 恋しさを置いてきた場所に想いを馳せる。どこで失くしてしまったのだろう。古びたホテル、大学の図書館、ビジネス街の中の公園、羽田の部屋のあの白いカラーボックス、それとも、おとぎの国の、入り口に。

 迷う駿太郎の手の中の中で携帯電話の液晶画面が暗くなった。