イヤイヤをするように頭を振って額をシーツに強く擦り付けた。息苦しさに喘いで顔を横向け、ぎゅっと瞑っていた目を開けると白いカラーボックスが目に入る。
初めて見るはずのその景色を何処かで見たことがある、と思う。駿太郎はぼんやりとゆすられる体の奥に何か別の生き物が生まれたのを感じた。
──なんだっけ?
──あぁ、そ・・・だ、そ・・う・・だ
トルコブルーが遠い海のように光る薄手のコットンの裾から見える形の良い踝。
──『駿…』
不意に訪れた記憶の断片がなぜか駿太郎を内側から外側から穿って駿太郎は耐え切れずに声を漏らして爆ぜた。

 駿太郎の身体の上に全体重を掛けたままで羽田がぜいぜいと息を切らしていた。
 「な…なんなの、駿太郎、き、今日、すごかった、ね。ホテルより…良かった?」

 「んん?」
 羽田を乗せたまま駿太郎は曖昧に答えた。
 ──あの男だったなら…
 重すぎてこんなふうにできない。というよりも、あの男だったならそもそも、こうやって駿太郎に乗っかったままでなどいないはずだ。
 自分で手放した恋なのに、なぜこれほど自分はあの男を思い出すのだろうか。自分から手を取ったはずの恋しい男に掻き抱かれる腕の中でさえ。

 その時、玄関のドアが開いて、羽田の母親の声が階段下から響いた。
 「ただいまー!」
 二人は顔を見合わせて、急いで身づくろいをした。部屋着を纏った羽田は先手を打って階下へ降りていく。駿太郎は階下まで言って挨拶をした方がいいか、ここで待っていいかどうか悩みながらただ前髪を撫ぜつけていた。
 階段下から羽田が「もっと遅くなると思った」と不満そうに言っている声が聞こえた。羽田の母親が「早く帰ってきたのよ。せっかく平賀君が来るって聞いたから。よかったでしょ、美味しいおやつにありつけるんだし」と応酬する声が階段を昇ってくる二人の足音と共にだんだんに大きくなって聞こえた。駿太郎は居住まいを正した。
 「こんにちは。お邪魔しています。」
 と、駿太郎は青年らしく微笑む。どうやらその微笑みはどうやら成功したらしかった。


 「夕ご飯を食べてらっしゃいよ。」
 と、言う、その声も言葉尻もまったく違ったものであるのに、確かにこの人は羽田の身内なのだなあ、と思う程その言葉の抑揚や口調は羽田とよく似ていた。押し付けがましいわけではないけれど、ついつい言う事を聞きたくなるような誘い上手な口調だった。
 「平賀くん、お家に電話して、おかあさん、御飯作っちゃうと、もったいないでしょ。」
 電話の子機を駿太郎に握らせて、自分はさっさとエプロンをつけてキッチンへ向かって行った。やっぱり似てる、と駿太郎は思う。
 「そうしなよ、駿太郎。ね。」
 羽田は嬉しそうに笑って電話の子機を手にすると駿太郎の家の電話番号を押した。
 「よく覚えてるんだな。」
 「ん?まあね。指が覚えてるってやつ?」
 くくくと笑って羽田は子機を駿太郎に押し付けた。その片頬に出来るえくぼを駿太郎は懐かしく思う。そうだ、羽田はいつもこんな風に笑った。教室で、体育館で、校庭で、ファーストフード店で…。

 それから二人は、羽田家の居間でまるで中学生か高校生に戻ったみたいにゲームに勤しんだ。笑い声が響く居間から湯気の立つ台所を見る。羽田の母親はくるくると台所を立ち回って、次から次に皿を出していく。自分の母親もこんなだったろうか、とふと思う。駿太郎は最近台所に立つ母親の姿を見ていなかったことに気付いた。大学とアルバイトとデート。朝も不規則だ。台所に立つ母親を見なくなる──こうやって自分はおとなになる、これがおとなになっていく、という事なのだろうか、と駿太郎は思った。

 羽田家のダイニングテーブル一杯に皿が並んだ。
 「平賀君は好き嫌いあるー?」
 楽しげに尋ねながら皿を並べていく羽田の口角の上がった口元は本当にとてもよく羽田と似ていた。
 「好き嫌い、特にないです。」
 羽田が椅子を引いて座る。その横に並んだ、一揃いだけいかにも客然とした茶碗と箸の前に駿太郎は腰をかけた。

 フランクフルトのケチャップソテー。中華風の豚肉と野菜の炒め物。ほうれん草のバター炒め。油揚げと大根の味噌汁…。いかにも育ち盛りの男子が好みそうな家庭料理が並んでいた。駿太郎はお世辞なく「うまそー!」と手を合わせて
 「いただきまーす!」 
 と真っ先に言った。その駿太郎の様子に嬉しそうに笑った羽田と羽田の母親はやはりそっくりに目を細めていた。