羽田にしては珍しい、割合に大胆なシャツだと思った。紺色と白の太いボーダーは、でも、羽田の容姿によく似合っている。長袖のラガーシャツの袖を捲り上げて、羽田は片肘に手を掛けてどこか斜め上の方を見上げていた。駅ビルの張り出したウィンドーを眺めているのかもしれない。

「お待たせ!」
 羽田の5メートルほど前で声を掛けると、羽田はこちらを向いてすっと背筋を伸ばした。
 「あ、早かったな」
 羽田はとても嬉しそうに笑って駿太郎の肘を取るようにして歩き出す。羽田のこの笑顔はあからさまな恋情を湛えていて、駿太郎はその素直さが嬉しくもあるし、少し照れくさい気がして周囲を気にしてしまうのだった。
 「どこ行く?」
 歩き出しているくせに、そんなことを訊く。どこでも、と答える駿太郎はその足がいつもと同じようにこの町をただ二人で闊歩するのだと知っている。駿太郎は、羽田が見上げていた方向を振り向いて確める。そこにはやはりショーウィンドーがあって、あと一ヵ月半もすれば町中がその色に彩られる、赤と緑を基調にした装いのボディが三体、スキップするように並んでいた。

 講義が終わった後アルバイトのない日には都会の駅のどこかで待ち合わせる。たわいもない会話をするためだけの時間を過ごす。目的地はなくただ歩きながら言葉と沈黙と時を重ねた。
駅から少し離れるとただひたすらにビルが並ぶ街並みを歩く。喧騒を離れれば二人の距離は少し離れる。偶然のふりで手を握ることもできなくなる。
 計画的な緑が縁取る都会の公園は、小さな柵に囲まれた芝生が凪いでいる。木々の向こうに見える白いビルの壁。切り取られた青い空。昼間ならさんさんと降り注ぐ太陽の下で、夕暮れ時ならその空が薄紫に変わるのを見つめ続ける。夏ならば火傷するほど熱くなった手すりに触れないように座る木製のベンチ。木陰ばかりを探す小道。さざめく木の葉の下で、その葉擦れの音ばかりを聴くこともあるし、まるでその音に掻き消されそうに小さく愛を囁くこともある。つなげない手をぶらぶらと振りながら歩く。二つに分かれた道を指差して下ろした手がふと触れると嬉しくなる。公園に飽いたら、いつまでもアスファルトを歩き続ける。次の公園を見つけるまで。または、安い小さなコーヒーショップを見つけるまで。 

 薄闇に暮れていく都会のアスファルトはビジネスシューズとパンプスばかりが通り過ぎていく。そのアスファルトの上をまるで似つかわしくないスニーカーが並び、離れ、また並んだ。いつものように二人だけの静かなステップを刻む。どこまででも行ける。どこまで行けるのだろうかなど考えもしないで二人のスニーカーが薄暮の中に溶けて行く。

薄い教科書とルーズリーフを入れたプラスチックのケースを抱えた羽田が、ケースを持ち替えて、そうだ、と人さし指を立てる。
 「そうだ。この前ね、雑誌でちょっと美味しそうなとこ見つけたんだ。原宿にあるんだけど…」
今度行ってみたい店、面白かったテレビ、おかしな教授の講義、いくつもの近くて遠い未来の欠片。その欠片はどれもキラキラと光りながら、昼間なら木漏れ日の陽光に、夕暮れ時なら夜空の星になろうとしているように、見えない粒の光になって昇華した。
 「いいねえ、行こ!」
 小さな約束を、いくつもいくつも重ねて、ひとつひとつ叶えていく。駿太郎を満たすのは、ただ嬉しさだ。駿太郎は気付いていないけれど、その気持ちはどこまでも純粋で、とてもささやかだ。そしてそれだからこそ、どれほどに貴重なものであるのかも、今の駿太郎にはまだ分らなかった。大好きだと思う気持ちと大好きだと思われている気持ちをただ投げ渡し受け取る。その単純な愛情表現が今この時にしかできないと知っていたら、なにか変わったろうか?
 嬉しそうに笑う羽田を見るのが好きだ。全身全霊で駿太郎を好きだと伝えてくれる彼の素直な笑顔。手を取りたくて取れない、そのもどかしさを伝える表情も、彼を抱く瞬間に細まる目も、ひたすらに駿太郎を求めるだけの手が力の加減など知らないようにただ拙く駿太郎の体を這うのも。その間中、言葉もない、その余裕のなさも。

 ビルの隙間に昇った月と目が合った。その月は疑わしそうに眇めている目のようだ。
 紺色に黄色いロゴが入った駿太郎のスニーカーが止まる。その横で、羽田の黒い無地のハイカットのスニーカーも止まった。
 「どした?」
 「ん?うん。月だ。」
 駿太郎が言う。
 「ホントだ」
 月を見上げた羽田の顎の線はとても綺麗だった。駿太郎の目線に気付いた羽田は、駿太郎を見下ろして微笑んだ。ハイカットのスニーカーがぎゅっと地面を踏む。駿太郎の紺色のスニーカーの中で駿太郎の足がほんの少し爪先立った。
 「もう帰らないと」
 「うん。」
 内緒話をする振りで耳に口づけた、羽田の吐息は熱かった。