ねじれの位置の恋人 ~世界でたったひとり、出会ってはいけなかった人~

 しばらくすると、七海の前に温かいコーヒーが静かに置かれる。

「ミルクはないが、砂糖だけなら」
 コーヒーの隣に置かれた砂糖はスティックでもなく、角砂糖でもなく、調味料ポットに入った砂糖だった。
 そのアンバランスがおかしかった七海が泣きながら笑うと、佐野は「そんなに笑わなくても」と肩をすくめる。

 佐野は無理に聞き出すことなく、ただ側にいてくれた。
 変な慰めの言葉や同情もなく、スマートフォンや本を見ることもなく、静かにコーヒーを飲みながら待っていてくれる。
 佐野には迷惑をかけてばかりだ。
 どれだけ時間が経ってしまったのかもわからないほど泣いた七海は、ぐちゃぐちゃになってしまった顔からもうタオルを離せないことにようやく気が付いた。
 
「あの、佐野さん。洗面所をお借りしても……?」
 七海は涙と鼻水でドロドロになってしまった顔を洗わせてもらうため、洗面所へ。

「酷い顔」
 目はパンパン、鼻は赤い。鼻水は止まらないし、顔全体がむくんでいる気がする。
 こんな顔、とても見せられないなと七海は目を伏せた。

「これをタオルに包んで目元を冷やせ。あと水分補給」
 ノックの音と共に、少しだけ開いた扉から保冷剤とペットボトルの水が差し出される。

「次は蒸しタオルを持ってくる」
 七海が受け取ると、すぐに扉はパタンと閉まってしまった。
 もしかして顔を見ないように気を遣ってくれている?
 
 さすがお医者さんといえばいいのだろうか?
 保冷剤で冷やすなんて知らなかった。
 言われた通り保冷剤をタオルで包んで目元にあてると、ひんやりして気持ちがいい。

 5分ほど経った頃、蒸しタオルが差し出され、今度は目元がポカポカに。
 次はまた保冷剤、蒸しタオルと、何度か冷やしたり温めたりを七海は繰り返すことになった。

「目元のマッサージをすると血液の流れが良くなって腫れが減るが、そこから出られるか?」
「だいぶ酷い顔ですけど……」
「青白い病気のような顔よりマシだ」
 初めて会った日の顔色は本当にひどかったと揶揄う佐野の言葉に勇気づけられた七海は、洗面所の扉を開けた。

「スッキリしました」
「そうか」
 初めて会った日から、佐野には迷惑をかけっぱなしだ。
 本当に優しくて、何でも知っていて、私とは住む世界が違う人。
 
「ベッドに横になれ」
「え? ベッド?」
「ソファーは狭い」
 指示された通りに七海はベッドに横になる。
 このベッドを借りるのは二度目だが、やっぱり人のベッドは恥ずかしい。

「涙腺がここにあって、まぶたに涙が溜まるんだ。これを流してやらないと腫れる」
 佐野の手が七海のまぶたにそっと触れ、目の周りを順番に押さえていく。
 本当に目のマッサージだけで、ベッドを意識した自分が馬鹿すぎる。
 
 でも、気持ちがいい。
 おいしいごはんも食べて、泣いてスッキリして、さらに目のマッサージなんて贅沢すぎる。
 ふわふわな温かい気持ちに包まれた七海は、うっかり夢の世界へ。
 
 次に目が覚めた時には、窓の外は真っ暗だった。
 
「えっ? 何時?」
「19時20分だ」
 急に飛び起きた七海を笑いながら、佐野はソファーから時間を教えてくれる。

「すみません! うっかり眠って……」
「目は腫れていなさそうだな」
 よかったなと言われた七海は、手で顔をペタペタと触った。
 目も開きにくくないし、本当に腫れていないかも。
 
「だが、髪がボサボサだ」
「えっ!?」
 布団がふかふかで気持ちよすぎて、埋もれながらスリスリしたのかもしれない。
 手で後頭部に触れると、絡まって指が通らない髪に七海は焦った。
 早くおんぼろアパートに帰って、髪を洗ってコンビニに行く準備しないと!
 
「あと2時間半あるから、洗濯して、ごはん食べて……」
 独り言を言いながらベッドから立ち上がった七海は手櫛で髪を整える。
 ソファーに置きっぱなしの鞄に手を伸ばし、下の方に埋もれたペラペラのヘアブラシを探した。

「ここに住むか?」
「……え?」
 聞き間違い?
 七海がキョトンとすると、佐野は長い足を組みながらもう一度同じ言葉を繰り返す。

「ここに住むか? 一緒に」
 突然発せられた佐野の提案に、七海はどうしてそうなったのかまったく意味がわからなかった。