ねじれの位置の恋人 ~世界でたったひとり、出会ってはいけなかった人~

 パン屋まで迎えに来た佐野に連行された七海は、目の前のご馳走によだれが出そうだった。

「食べながら話そう」
「これ、全部佐野さんが?」
「あぁ。食べやすそうなものにした」
 ハンバーグ、野菜スープ、サラダに艶々ごはん!
 筑前煮とお漬物まであるなんて豪華すぎる!

「いただきます」
 デミグラスソースがかかったハンバーグは割っただけで肉汁がジュワッと溢れてくる。
 表面は香ばしいのに、中はふっくらジューシーでおいしい!

 佐野は箸の持ち方も綺麗で、姿勢もよくて育ちの良さがうかがえる。
 七海は自分の箸の持ち方が急に気になってしまった。
 
「困ったら電話しろって言ったのに」
「急に来月から新しい子に交代だって言われたんですよ」
 言われたのがクビになる4日前ですよ、4日前! と、七海は小さい子のように手で4を作りながら佐野に話した。
 
「そんなギリギリに知らされたのか?」
 非常識だなと言ってくれる佐野の言葉が、まるで自分の味方のようでうれしい。

「だからその日の午後から月末まで休みます! って従業員証も全部置いてきちゃいました」
 馬鹿でしょう? と七海が自嘲すると、佐野は迷うことなく「馬鹿だな」と答えた。

「グーで殴るぐらいして来いよ」
「お医者さんがそんなこと言っちゃいます?」
 七海は嫌がらせの具体的な内容は話さなかったが、係長に嫌われていたことを話した。
 有休申請をしたのに欠勤扱いで給料はナシ、次の斡旋はないと派遣会社の担当から電話で言われたことも。

「仕事ができなさそうな話し方だったからな」
 こんなにハイスペックな佐野と比べたら、ほとんどの男性は残念になってしまうかもしれない。
 それはさすがに可哀想だと七海は心の中でツッコんだ。

「ほら、手が止まっているぞ。たくさん食べろ」
 筑前煮はだしの味が具材にしっかりと染み込んでいて、鶏肉はほろほろと口の中でほどけてしまった。
 サラダはスパイシーで酸味が効いたドレッシングがおいしい。
 何という名前のドレッシングかわからないけれど。
 
「深夜のコンビニは、辞めた方がいい」
「危ないから、ですよね」
「そうだ」
 深夜帯は人通りが少なくなり、昼間よりも店舗が狙われやすい。特に女性が一人でいると、ターゲットにされやすいというのは七海も理解しているつもりだ。
 だが、レジの下には緊急ボタンもあるし、店長も奥の部屋にいるし、本当に不審者が現れた時は逃げ込めばなんとかなるのではないかと、七海は奥の部屋へ通じる扉は絶対に閉めないようにしていた。
 
「酔客や悪質な客が来ることもある」
「今のところ、遭遇はしていないですけど」
「深夜勤務は生活リズムを乱しやすいし、睡眠不足や疲労で体調を崩す」
 たしかに昼寝はしているが眩しくてあまり眠った気にならなかったり、子どもの声や工事の音で起きてしまうこともあったけれど。
 
「孤独感やプレッシャーも精神的な負担になる」
「孤独感……?」
 あぁ、深夜の全く人が来ない時間帯に自分だけが世界から取り残されたような気持ちになったのは、孤独感だったんだ。
 七海はようやくここ数日、正体不明だった自分の感情が理解できた。

 あれが孤独感。
 寂しいとは違う、疎外感とも違う、出口のない暗闇のような気持ちだった。
 時間だけが過ぎ去っていき、その時間からも取り残されたかのようにただ立ち尽くしている自分は、誰にも必要とされないまま人知れず消えていくのだと怖くなった。
 
 七海の目から勝手に涙が溢れ、頬を伝っていく。
 今まで誰も分かってくれなかった、話しても迷惑がられるだろうと抑え込んでいた悲しみや苦しさが、「孤独」という言葉でいっきにこみ上げてくる。
 自分ではどうにもできないほどに。
 七海は慌てて箸を置くと、色気もなく手のひらで涙を拭った。

「……悪い、踏み込みすぎた」
 佐野からふかふかの白いタオルが差し出された七海は、受け取りながら首を横に振る。
 ソファーに誘導された七海は嗚咽を我慢することもできず、タオルに顔を埋めて泣き続けた。