ねじれの位置の恋人 ~世界でたったひとり、出会ってはいけなかった人~

 未練がましく解約していない日本で使っていたスマートフォンも、そろそろ終わりにしなくては。
 七海は最も救いたかった存在。そして同時に自分がこの世で最も近づいてはいけない人。
 彼女を救えば、自分自身の止まった時間も動き出すのではないか――そんな甘い幻想を抱いたこともあった。
 
 そして何より、何事にも一生懸命で、どんな苦境でも諦めない七海に惹かれる自分を止めることができなかった。
 その資格は自分にはないのに。
 
「もし父が執刀医ではなかったら……」
 独り言ちた声が、車内の密閉された空間に虚しく響く。
 
「もう一度だけ七海に会うことを許してもらえるだろうか……」
 そんなはずはないか。
 執刀医でなくても、あの日手術室にいたことには変わりない。
 そして七海の父親を救えなかった事実は変わらない。

「あと少し」
 来週ようやくその男に会える。
 あの男はまだ知らない。
 かつて自分が踏みにじった男の息子が、医師の知識と法の剣を携え、その喉元まで迫っていることを。

 バックミラーに映る自分の瞳は、もう誰かを愛せるような色をしていない。
 七海がもしこの眼差しを見たら、きっと怯えて逃げ出すだろう。
 それでいい。彼女には、陽の当たる場所で笑っていてほしい。
 たとえ、その隣に俺がいなくても。
 
 大和はハンドルを握る手に力を込めながら、西海岸の道路を走り抜けた。


 ロサンゼルスにある医療財団の理事長室は、外の陽光が嘘のように冷え切っていた。
 
「おぉ、君か。日本から来た研修医は」
「はじめまして。佐野です」
「君のように熱心な若者は歓迎するよ。好きなだけ資料を見て、我が財団の『輝かしい歴史』を学んでいくといい」
 理事長エドワード・スズキの傲慢な笑みに、大和は心の中で静かに冷笑を返す。

「ええ。おかげさまで、期待していた以上の『記録』を見つけることができました」
 大和は二人の男を勝手に部屋に招き入れながら、エドワードの反応を眺めた。
 ひとりは当時、エドワードの偽証を日本に伝えた老弁護士、そしてもうひとりはカリフォルニア州医療委員会の調査官だ。

「な……なんだ? なぜ勝手に入ってくる」
 余裕が消えたエドワードに、大和は一冊の古いオペ記録を机に叩きつけた。