ねじれの位置の恋人 ~世界でたったひとり、出会ってはいけなかった人~

「あの子に事情を……」
「知らせる必要はない」
 大和の瞳に、七海に向ける時とは違う冷徹な光が宿る。
 
「俺は、あの日から止まったままの時間を動かしに行くだけだ」
 西九条弁護士事務所をあとにし、どこにも寄らずにマンションに戻った大和は、扉を開けた瞬間に漂ってきた香ばしい醤油の香りに、張り詰めていた気持ちがふっと緩んだ気がした。
 
「おかえりなさい、大和さん。もうすぐご飯が炊けますよ」
 エプロン姿の七海が、弾んだ声でキッチンから顔を出す。
 
 その屈託のない笑顔をずっと見ていたいなんて思う資格など俺にはないのに。
 抱いてはいけない感情を押し殺した大和は、この平穏な時間が砂時計のようにこぼれ落ちていることを、どうしても七海に告げられなかった。
 
    ◇

 七海が作った甘辛い生姜焼きを食べた大和は、タレが染みたキャベツを追加で口に放り込んだ。
 
「うまいな」
「よかった~!」
 いつもはインターネットで検索したレシピで作っていたが、今日は料理の本を買ったのだと、七海はレシピ本を指差しながら大和に報告する。
 基本の和食と書かれた背表紙を眺めながら、大和は「あとで見せてくれ」と笑った。

「今日、真くんと本屋に行ったんです」
 こんな分厚い問題集を買っていたと、少し大げさに七海が手で表現すると、さすがに厚すぎないかとツッコミが入る。
 
「がんばれと言っておいてくれ」
「大和さんに応援されたら、真くん喜んじゃいます」
 憧れの弁護士なんですよと七海がバラすと、大和はもっとすごい弁護士はたくさんいると冷静に答えた。

「……大和さん?」
 箸を止め、じっと七海の顔を見ている大和に、七海は首を傾げる。

「七海はこれからやりたいことはあるか」
「えーっと、まずあの本に載っている料理を全部作れるようになりたいです」
 大和に「おいしい」って言ってもらえるのが、今は一番嬉しいから。

「あとは?」
「秋になったらモンブランとか作ってみたいです!」
「七海は食べ物ばかりだな」
 食いしん坊だと笑われた七海は真っ赤な顔に。

「秋はサンマやナスもうまいだろうな」
「あの本にナスの煮びたしがついていたので、今度作りますね」
「……あぁ」
 大和の返事は、なぜか少しだけ遅い気がした。

 明日があって、来月があって、季節が巡ればまた新しい旬のものを二人で食べる。
 そんな当たり前の未来が、どこまでも続いていると信じていた。
 
 どうして違和感に気が付かなかったんだろう。
 八月の終わりのその先に、大和のいない未来が待っているなんて。
 それを知らずに浮かれていた自分を、今の私は、思い出すだけで胸が締め付けられるほど後悔している。